イエス教
宇宙の秘密に参入した者にとって、この書(ヨハネ福音書)は人類史上最高度に意味深い文献のひとつなのです。それなのに、
霊学上それほどまでに重要な文献が、時代が下るにつれて、特に神学の研究者によって、他の三福音書よりも、ますます無視 されるようになっていきました。(P7-P8)
現代の神学書や説教の中で語られているのは、次のことなのです。----われわれはもはや超感覚的な原理などに訴えかけた
りはしない。最初の三福音書が語るイエスが本来のイエスの姿だ。そこには、他の人びとと似ている「ナザレ出身の素朴な男」 のことが語られている。
多くの神学者にとって、この素朴な男こそが理想となったのです。歴史上の出来事を一般の人間的な出来事と、可能な限り同
列に置こうとするのです。ヨハネ福音書の描くキリストのような崇高な存在が、ひとり突出しているというのは、人びとの神経を逆 なですることなのです。ですから、ヨハネ福音書はイエスを神化して、ナザレ出身の素朴な男を神として崇仰している、ということ になります。単なる素朴な男の方が、神学者たちの気に入るのです。そうすれば、イエス・キリストをソクラテスのような、偉大な 人間のひとりとして語ることができるのです。
イエスは他の偉人たちとは本質的に異なる存在なのですが、「ナザレ出身の素朴な男」について語るときには、どこかで通常の
陳腐な人間性を基準にして語ることができます。今日のいわゆる「啓蒙神学」の立場で書かれた無数の神学書、神学論文が 「ナザレ出身の素朴な男」について語るとき、ここには数百年来の唯物論的な感覚が生きているのです。この立場は、物質的、 感覚的なものだけが実在する、それだけが意味を持っている、と信じているのです。
超感覚的な世界に眼を向けることのできた時代の人は、外から見れば、歴史上の偉人たちとナザレ出身の素朴な男とを比較す
ることができるけれども、ナザレのイエスの中の、眼に見えぬ霊的な存在に眼を向ければ、この男が比較することのできない存 在であることが分かる、と思っていました。
超感覚的なものへのまなざしを失った人は、平均的な人間性を超えるすべてが理解できなくなりました。その結果が宗教観の
中に顕著に現れています。唯物論はまず初めに、宗教生活に働きかけるのです。(P11-P12)
(関連ページ) 社会の未来-イエス教
パウロの学院
エソテリックなキリスト教は、エクソテリック(顕教的)なキリスト教と並んで、ひそかに存在してきました。しばしば述べたように、
偉大な使徒パウロは諸民族にキリスト教を伝えるために、燃えるような力強い宣教活動を行いましたが、同時にエソテリックな キリスト教の一派を立てました。使徒行伝第17章34節に引用されているアレオパゴスのディオニシオはその派の代表者です。 直接パウロ自身がアテネで設立したこの教派において、純粋な霊学が教えられました。
このエソテリックなキリスト教は、次の教えを大切にしました。----覚醒時の人間は、肉体、エーテル体、アストラル体および自
我から成り立っている。
もちろん今日の神智学の用語と同じではありませんでしたが、そんなことは重要ではありません。いずれにせよ、この四つの存
在部分を持つ人間が、どのような進化の過程を辿ってきたかが伝授されたのです。(P31)
(関連ページ) 薔薇十字会の神智学-薔薇十字の道
ヤハヴェと6エロヒーム
月紀がその進化を終えたとき、愛を流出させることのできる7つの神的存在たちがいました。今私たちは、神智学の明かす深い
秘密に触れることになります。
地球紀の初め、まだ幼児期の状態の人間が存在していました。その人間はこれから愛を受け入れ、自我を、身につけなければ
いけません。一方、太陽は分離して、より高次の存在にまで高まっていきました。この太陽においてこそ、光の霊であり、愛の 送り手であった7主神たちは進化できたのです。しかしそれらのうちの6つの神霊たちだけが太陽を居住地としました。私たちの 方へ流れてくる日の光の中には、この6つの光の霊たち、つまり聖書に述べられている6エロヒームたちの愛の力が含まれてい ます。一方、7番目の霊は分かれて、人類を救済するために別の道を行き、太陽ではなく、月を居住地に選びました。みずから の意志で太陽存在であることをやめ、月を選んだこの光の霊は、旧約聖書の「ヤハヴェ」または「エホヴァ」に他なりません。この 霊は、月から豊かな叡智を地上に流し、それによって愛を準備しました。
万象の背後に存するこの秘儀に眼を向けてみましょう。夜の世界は月のものです。このことは、人間がまだ日の光を通して太陽
から愛の力を受けとることのできなかった太古の時代には、一層あてはまりました。夜、太古の人間は豊かな叡智の力を月の 光から受けとったのです。夜の意識の続く間、反射された月の光を通して、その力が人間に流れてきました。ですからヤハヴェ は、夜の支配者と呼ばれるのです。彼はいつか愛が人間の昼の意識の中に生じるように準備したのです。太古の時代には、一 方の側を太陽で、他方の側を月で象徴することのできる霊的な経過が生じていたのです。
その当時、夜の月が反射された太陽の力を人間たちに送りこんでいます。それは太陽から私たちのところに流れてくるのと同じ
光です。ヤハヴェまたはエホバが6つのエロヒームの豊かな叡智の力を反射していたのです。そして眠っている人間にこの力を 流し込み、いつか覚醒意識の時間に愛の力を次第に身につけることができるように準備しました。
月はヤハヴェまたはエホバの象徴であり、太陽はロゴスである残りの6エロヒームの象徴です。
イエス・キリストという歴史的存在は、6つのエロヒームであるロゴスの力が、西暦の初めに、ナザレのイエスに受肉したものに
他なりません。(P56-P59)
(関連ページ) 創世記の秘密-7柱のエロヒムとヤハウェ・エロヒム
キリスト以前の秘儀参入の七段階
(ヨハネ福音書の)作者は、ラザロの復活以後の諸章において、もっとも深い内容を語っています。とはいえ、それ以前の諸章の
中でも、この福音書の内容が秘儀に参加したものだけに理解できるような事柄を扱っている、と到る所で示唆しています。すで に最初の数章の中には、秘儀参入に関わる事柄が含まれている、と暗示している箇所があります。
もちろん秘儀参入にはさまざまな段階があります。たとえば、東洋の或る秘儀(ミトラ教)においては、七段階が区別され、その
各々が象徴的な名前で呼ばれていました。
第一に「烏(からす)」の段階、第二には「隠者」の段階、第三は「戦士」の段階、第四は「獅子」の段階です。第五段階は民族に
応じて、それぞれにふさわしい民族名が用いられています。たとえばペルシア人の場合、第五段階の秘儀参入者は「ペルシア 人」と呼ばれます。これらの名称の意味するところは、以下の通りです。
第一段階の秘儀参入者は、オカルト的な生活と外的な生活を仲介するために、あちこちに派遣されます。この段階の人物は、ま
だ外的な生活に身を捧げていなければなりません。そしてそこで探知した事柄を秘儀の場で報告しなければなりません。です から、外から内へ何ごとかが伝えられねばならないとき、「烏」がその伝達の役割を果たすのです。どうぞ予言者エリアの烏やヴ ォータンの烏のことを思い出して下さい。バルバロッサの伝説にも、烏が出てきます。これらの烏は、外へ出ていくときが来たか どうかを、知らせなければなりません。
第二段階の秘儀参入者は、すでにまったくオカルト的な生活を送っていました。第三段階の人は外へ向かってオカルト的な事柄
を主張することが許されました。つまり「戦士」の段階は、戦う人を意味するのではなく、オカルト的な教義を擁護することが許さ れた人のことなのです。
「獅子」の人は、オカルト的な生活を自分の中に実現する人のことです。オカルト的な内容を言葉で擁護することが許されている
だけでなく、行為によっても、つまり魔術的な行為によっても、そうすることが許された人のことなのです。第六段階は「日の英 雄」、第七段階は「父」の段階なのですが、ここでは第五段階が問題になります。
古代人は共同体の中で生きていました。みずからの自我を体験するときも、その自我を集合魂の一員であると感じました。しか
し第五段階の秘儀参入者は、自分の人格を捨て、みずからの中に民族の本性を全面的に受け入れるという供犠を捧げた人な のです。
他の人が自分の魂を民族魂の中で感じたように、この秘儀参入者は民族魂を自分の魂の中に受け入れたのです。自分の人格
を問題にせず、個人を超えた民族霊のみを生かそうとしたのです。ですからこの秘儀参入者は、民族の名前で呼ばれました。 (P102-P104)
(関連ページ) イエスを語る-秘儀の三段階
ナタナエルとの対話
ヨハネ福音書によれば、イエス・キリストの最初の弟子たちの中に、ナタナエルもおりました。ナタナエルは、初めてキリストの前
に連れてこられたとき、彼はキリストを霊視できるほどにまで、高次の段階の秘儀は伝授されていませんでした。もちろん、キリ ストは広大な叡智の霊ですから、第五段階の秘儀を受けたナタナエルでは、まだその本性を霊視することができなかったので す。しかしキリストは、ナタナエルの本性を霊視します。そしてそのことが二つの事実によって示されています。
まずキリスト自身がナタナエルのことを、「これこそは真のイスラエル人である」(1章47)と呼んでいます。ここでも民族名で呼ば
れているのです。ペルシア人の場合、第五段階の秘儀参入者を「ペルシア人」と呼んだように、イスラエル人の場合は「イスラエ ル人」と呼んだのです。
ですから、キリストはナタナエルを「イスラエル人」と呼び、そして、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの樹の下にい
たのを見ました」(1章48)と彼に語ります。これは秘儀参入者に対する象徴的な表現なのです。ちょうど、菩提樹の下に座す仏 陀の姿が、象徴的に理解されたようにです。
いちじくの樹は、エジプト・カルデアの秘儀を象徴しています。キリストはこの言葉で、ナタナエルにこう言おうとしたのです。「私
はあなたが秘儀に参入して、特定の事柄が霊視できるようになったことを知っています。なぜなら、いちじくの樹の下のあなたを 見たのですから」。そうすると、やっとナタナエルはキリストを認めるのです。----ナタナエルは答えて彼に言う。『師よ、あなた は神の子であり、イスラエルの王です』」。(1章49)
王であるという言葉は、この場合、「あなたは私よりも偉大です。そうでなければ、『あなたがいちじくの樹の下に座っているのを
私は見た』と言うことはできなかったでしょうから」という意味です。そうすると、キリストは次のように答えます。----いちじくの樹 の下であなたを見た、と私が言ったので、あなたは私を信じましたが、あなたはこんなことよりも、もっと大切なことを見ることにな るでしょう」。(1章50)
次いでキリストは次のように語ります。----あなた方は、天使たちが人間の子の方に昇り降りをするのを見るでしょう」。(1章5
1)
キリストを認めることのできた人は、これまでに見たことよりももっと大切な事柄を見るようになるだろう、というのです。(P104-
P105)
人の子
時代が下るにつれて、個人がアストラル界から一個の肉体のうつわの中に入っていきます。この独立化は、アストラル意識が暗
くなるという代償を伴います。その代わり、肉体のうつわから物質界を見ることができるようになるのですが、しかしその代わり に、古い見霊意識は失われていきます。
こうして個人の独立した内面が、自我の担い手として現れます。眠っている人のベッドに横たわる肉体とエーテル体は、うつわ
なのです。アストラル体と自我は、夜、神的な実体のもとへ、みずからを強めるために、もどっていきます。もちろん当時のよう に、見霊的な意識を保ってはいませんが、地球紀の進化の中で生じたみずからの独立性は保っています。
いったい誰のおかげで、この独立した人間の内面は生じえたのでしょうか。人間の肉体とエーテル体のおかげなのです。それら
が昼間物質感覚によって物質界を見、夜、無意識状態の中に沈むことを可能にしたのです。この肉体とエーテル体とを、オカル ティズムは「本来の地球人」と呼びます。これが「人間」なのです。そして夜、そこから抜け出るアストラル体と自我を、「人の子」 と呼びます。
イエス・キリストは何のために地上に来たのでしょうか。何を地球に伝えようとしたのでしょうか。
神のもとから切り離されたこの「人の子」が、キリストの力によって、ふたたび霊的意識を獲得するようになるためです。人間は、
物質感覚で物質界を見るだけでなく、今は無意識的でしかない内的本性の力で、神的存在を意識すべきなのです。地上に出現 したキリストの力で、人の子はふたたび神のもとに上げられなければなりません。
これまでは選ばれた人だけが、秘儀参入を通して、霊界を見ることができました。そのような人びとは、古代においては、「蛇」と
呼ばれました。蛇とは秘儀参入者のことなのです。彼らがイエス・キリストの先ぶれでした。モーセは蛇を掲げる(民数記21章8 −9)、つまり霊界を見る人びとに高めるという使命を、象徴として民衆に示したのです。キリストはこのことを、すべての「人の 子」のために可能にしようとするのです。(P139-P140) |