イエスを語る
新しいエッセネ派
このことは、ひとつの情報として受けとっていただきたいのですが、人びとがキリストを霊視する時代に向かって、今私たちは生
きているのです。人びとのこの霊視体験は、20世紀が終わるまでに生じます。一定数の人びとが本当に「テオドラ」(シュタイナ
ーの戯曲の登場人物)になるのです。つまり、パウロが「早産」して、すでに1世紀にダマスコ郊外で体験できたのと同じ霊視体
験を今、人びとが持つようになるのです。かなりの数の人びとが、まだ20世紀の終わる以前に、キリストを体験するのです。キリ
ストを知るのに、パウロがそうであったように、福音書を必要としなくなるのです。その人たちは、キリストをめぐる事情を、内的な
体験だけからでも知るようになります。そのときのキリストは、エーテルの雲の中から現れてくるでしょう。(P256)
人の子と生ける神の子
現代はこのことをひとつの警告として受け取らなければなりません。現代は機械がその「自主性によって作業を開始する」のを
好みます。しかし人類は、以前自我意識の外にあったもの、キリストの出来事に到るまでのすべての古代秘儀の中で自我意識
を離れて体験されたものに関して、「自主性によって作業を開始する」ことを学ばねばなりません。人間は、すべてにおいて自己
創出的な創始者にならなければならないのです。そしてまさに現代の人類こそが、このことを、キリスト衝動に浸透されることに
よって理解しなければならないのです。
こう考えると、イエス・キリストの使徒たちへの問いかけがきわめて重要だったことに気づかされます。キリストはまずこう問いか
けました。「この人びとの指導者のうち、誰が人の子と呼ばれうるのか」。そして使徒たちが何人かの指導者の名を挙げますと、
キリストは別の問いを発します。キリストは使徒たちにキリスト自身の本性を理解させ、キリストが自我性を代表していることを理
解させようとしたのです。このことが別の問いの中に現れています。「そして私を、私であることを、どう考えるのか」(第16章15
節)。
「私である」は、「マタイによる福音書」ではどの場合にも特別強調されているのですが、そのときペトロは答えて、自分は今、キ
リストを「人の子」と呼ぶだけでなく、----この言葉を通常と同じように訳すことができますが----「生ける神の子」とも呼ぶ、と
言ったのです。「人の子」と「生ける神の子」は、どこが違うのでしょうか。この言葉の意味を知るためには、前にお話しした事実
に補足を加えなければなりません。
前にも申し上げましたが、人間の進化は、人間本性の中に意識魂を発達させ、意識魂の中に霊我を生じさせる方向をとるので
す。しかし意識魂を発達させたとき、霊我、生命霊、霊人は、いわば人間に向き合うように立ち現れてきます。それは人間の開
いた花がこの高次の三統一を受容できるようにするためです。人間のこの進化は、一種の植物の生長の図として表すことがで
きます。
人間が意識魂の中で自分を開きますと、そこに霊我(マナス)、生命霊(ブッディ)、霊人(アートマ)が向かってきます。いわば霊を
実らせる(霊を実現する)ものとなって、上から人間に向かって降りてきます。人間の他の諸部分が下から成長し、人の子の花を
開かせますと、霊我、生命霊、霊人を人間に与える「完全な自我意識」が上から人間に向かって降りてきます。
未来の果ての人間を示唆する最初の贈り物となって上から降りてくる霊我を受け取らせるこの「完全な自我意識」が生命の子、
生ける神の子なのです。
ですからイエス・キリストはこの時点で、「何が私の衝動を通して人間のもとに来るのか」、と問うのです。生命を与える霊の原則
が上から人間のところに降りてくるのです。そのように、下から上へ向かって生長する人の子と、上から下へ生長してくる神の
子、生ける神の子とは、互いに向き合います。一見まぎらわしいこの二者を、私たちは区別しなければなりません。しかし私たち
は、使徒たちにとってこの問いがむずかしい問いであったことを理解しなければなりません。使徒たちは、イエス・キリストの時代
のあとでは、どんな素朴な人も福音によってすでに植え込まれて持っているものを、すべて今、初めて受け取るのです。このこと
をよく考えてみるとき、この問いが使徒たちにとってどんなにむずかしい問いだったのかが分かります。(P272-P274)
秘儀の三段階
古代においても、近代においても、大宇宙に参入するための三段階があります。第一段階では、霊我によって知覚できるように
なります。そのときの人間は、新しい意味での人間になるだけでなく、ヒエラルキアの意味で、「天使の本性」にまで成長しま
す。それは人間のすぐ上に位置するヒエラルキアです。ですからペルシアの秘儀においては、大宇宙に参入する人、つまり霊我
が自分の中で働いている人を「ペルシア人」と呼びました。なぜなら、その人はもはや個人ではなく、ペルシア民族の天使に属
していたからです。そしてその人を直接天使と呼んだり、神のような人と呼んだりしました。
次の段階は、生命霊が目覚める段階です。この段階の人は、ペルシア秘儀の意味で「太陽の英雄」と呼ばれました。なぜなら、
太陽の力を得て、下から上へ、太陽の力にまで発展していき、そこから太陽の霊力を地上に送り込むからです。しかしその人は
「父の子」とも呼ばれました。
更に、古代秘儀のおいては、アートマもしくは霊人を発達させた人を、「父」と呼びました。天使、日の御子(または太陽の英雄)、
父、これが秘儀参入者の三段階でした。
いつ秘儀参入の時が来るのか、それは最高の秘儀参入者だけが知っています。ですからキリストは、お前たちが、今私の案内
した道を歩み続けるなら、秘儀に参入するであろう、と言い、そして、お前たちは天国へ到るであろう、と言いました。しかしその
時は霊我を得た天使も知らないし、生命霊に参入した人も知らないのです。ただ「父」を得た最高の秘儀参入者だけがそれを知
っている、とキリストは言いました。
ですから、「マタイによる福音書」のこの部分は、秘儀の伝統にまったく即した言葉で私たちに語っているのです。そしてあとでお
話するように、天国の告知は、使徒たちが秘儀に参入するであろうという予告なのです。「マタイによる福音書」のイエス・キリス
トは、この点について特別の仕方で語っています。しかるべき箇所を正しく読み取るなら、当時天国へ入るために語られていた
教えをキリストが取り上げていたことが、手に取るように分かります。
人びとは地球全体が天国へ到るのだと信じましたが、それはこの経過を物質的に理解したからです。本来、一人ひとりが秘儀を
通して天国に入るのだと考えなければならないのです。キリストは、物質の次元で地球が天国に変わるであろうと主張する人た
ちを、偽予言者、偽メシアと呼びました。今日でも、福音書解説者たちが、物質的に神の国が近づいているという立場がイエス・
キリスト自身の教えの中にある、という話を作っているのは、何とも奇妙です。イエス・キリストの言っているのは、霊的な経過の
ことなのです。秘儀参入者だけがその経過を体験するのです。しかしキリストは、地球紀の進化を通してキリストに結びつく人
は、どんな人でもこの霊的な経過を共にする。そしてそのときには人類のみならず、地球そのものも霊化されるであろう、と言う
のです。(P292)
「太陽の英雄」(日の御子)
諸民族の神話の中に、繰り返し「太陽の英雄」(日の御子)のことが出てきます。それは、霊界から人類の進化のために働きか
けてくる本性たちのことです。そういう太陽本性に浸透されている人は、外見上よりもはるかに偉大な存在です。外観は幻影で
あって、その背後に本来の存在が生きているのです。そういう人物の本性を窺い知ることのできる人だけが、この偉大な存在を
予感できるのです。(P298)
|