認識の三段階
ヨハネ福音書の一文一文を考察していった際、福音書のような聖典は、人生の本質と存在の本質を洞察し、世界の深みを洞察
した秘儀参入者、霊視者たちによって書かれたものであるということがわかりました。通常、わたしたちは「秘儀参入者」、「霊視 者」という言葉を、おなじ意味で使っています。しかし人智学的に精神生活の深みを考察するときには、霊視者と秘儀参入者とを 区別しなければなりません。霊視者と秘儀参入者は、存在の超感覚的な領域への道を見出した人間の二つのカテゴリーなの です。秘儀参入者と霊視者とは区別されるのです。とはいえ、秘儀参入者は同時に霊視者であり、霊視者はなんらかの段階の 秘儀参入者です。秘儀参入者と霊視者という二つのカテゴリーを正確に区別したいと思うなら、『いかにして超感覚的世界の認 識を獲得するか』に書いたことを、思い出してもらわねばなりません。通常の世界考察を越えていくには、本質的に三つの段階 があります。
まず人間に可能な認識は、感覚によって世界を見て、悟性その他の魂の力をとおして、感覚によって見たものを把握し、認識す
ることです。そのほかに、三つの認識の段階があります。第一にイマジネーション認識、第二にインスピレーション認識、第三に インテュイション認識です。
どのような人がイマジネーション認識を有しているのでしょうか。感覚界の背後に広がっているものが、壮大なイメージとして霊
眼に映る者は、イマジネーション認識を有しています。イマジネーション認識に現れる形象は、三次元的なものではありません。 そのほかにも、イマジネーションの形象には、通常の感覚界の事物とは比較できない特徴がいくつかあります。
目のまえに植物があると考えてみましょう。そして、植物の色がその植物から引き出されて、空中を自由に漂うのを見るとしまし
ょう。そうすると、わたしたちはイマジネーション界に達します。もし、植物から引き出した色彩を自由に漂わせておくだけなら、わ たしたちのまえにあるのは、死んだ色彩形姿です。霊視力のある人にとっては、この色彩形姿は死んだ色彩像にとどまってはい ません。感覚界において、色彩が植物の素材によって生あるものとされているように、修行を積んだ霊視者は、引き離された色 彩を、霊的なものによって生あるものにするのです。色彩形姿はもはや死んだものではなく、さまざまな色に輝き、きらめく、内的 な生命を有した色とりどりの光として、自由に漂います。それぞれの色彩が、感覚界では知覚できない、霊的−魂的存在の特 徴を表現するのです。感覚界にある植物の色彩が、霊視者にとっては、魂的−霊的存在を表現するものになるのです。(P8-P9)
霊視とは何か
霊視とは、そもそもなんなのでしょうか。霊視できるということは、エーテル体の器官を使用することができるということです。アス
トラル体の器官だけを使うことができる状態では、深い秘密を内的に感じ、内的に体験することはできますが、その秘密を見るこ とはできません。アストラル体のなかで体験したことがエーテル体に刻印されると、霊視が可能になります。太古の霊視は、ま だ完全には物質体のなかに入り込んでいないエーテル体の器官を使用できたために可能なものでした。人類は時間の経過の なかで、なにを失ったのでしょうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのです。(P64)
弥勒菩薩論
身体に受肉してはいるが、神的−霊的存在たちと交流し、高次の世界から人間に伝えるべきものを受け取る存在が菩薩です。
菩薩は人間の体の中に受肉し、神的−霊的存在たちと交流することのできる能力を持つ存在です。釈迦は、「仏陀」になるまえ は、菩薩でした。密儀のなかで、高次の神的−霊的存在たちと交流することのできる存在だったのです。菩薩のような存在は、 地球進化のはるかな過去に、あるきまった使命を高次の世界から受け取り、その任務を果たしていきます。(P39)
菩薩から仏陀になった時、仏陀は菩薩の任務をほかの存在に委ねました。そのことを語っている仏教の伝説は、キリスト教にと
って深い真理を含んでいます。仏陀になる菩薩は地上に下るとき、冠を取ってつぎの菩薩にかぶせた、と語られています。つぎ の菩薩は、仏陀とは違った使命をもって活動します。この菩薩も仏陀になることが決められています。いまから約3000年経っ て、多くの人々が自分から八正道を発展させたとき、仏陀の跡を継いだこの菩薩は仏陀になります。東洋で弥勒菩薩と呼ばれ ている存在です。弥勒菩薩が弥勒仏になるために、人類の大部分が自分の心から八正道を発展させていかなければならない のです。そうすれば、弥勒仏は新しい力を世界にもたらすことになります。
釈迦が入滅してから弥勒が下生するまでに、なにも生じていなければ、弥勒は内的な沈潜を通して八正道を考え出す人々を見
出すでしょうが、魂のもっとも奥底からあふれ出る、いきいきとした愛の力を持つ人々は見出せないでしょう。釈迦の入滅と弥勒 の下生とのあいだの時期に、愛の力が流れ込むことによって、愛とはなにかを洞察するだけではなく、みずからの内に愛の力を 持つ人々を、弥勒仏は見出すことができるのです。そのために、キリストが地上に下らねばならなかったのです。キリストは3年 間しか、地上に生きませんでした。キリストはそれまで地上に受肉したことはありませんでした。キリストがヨルダン川におけるヨ ハネによる洗礼から、ゴルゴタの秘儀まで3年間地上に生きたことによって、愛が人間の心、人間の魂、人間の自我のなかに 注ぎ込まれるようになったのです。人間はしだいにキリストに浸透され、地球進化の終わりには完全にキリストに満たされます。 慈悲と愛の教えが菩薩によって提示されねばならなかったように、愛の実質は、天の高みから下って、人間の自我に所有され るものとなったキリストによって、地上にもたらされねばなりませんでした。それ以前には愛はなかったのだ、といってはなりませ ん。人間の自我が直接所有する愛は、存在していませんでした。しかし、キリストが宇宙の高みから人間の無意識のなかに注 ぎ込む愛はあったのです。以前に菩薩(釈迦)が、八正道の教えを人間の無意識に流し込んだのとおなじです。
精神科学に精通している人々にとっては、仏陀の後継者のことはよく知られています。この菩薩が地上に現れ、弥勒仏になると
き、キリストのまいた種を見出します。「私の頭が八正道の叡智によって満たされているだけではない。私は愛についての叡智 だけを持っているのではない。私の心は世界にあふれ出る生命的な愛の実質に満ちている」ということのできる人々が存在する はずです。このような人々とともに、弥勒仏は世界進化のための使命を果たしていくことができるのです。(P209-P211) (関連ペ ージ) 仏陀からキリストへ-弥勒菩薩論
堕罪とは何か
人の子=自我
古い秘儀参入の方法では、まず魂を成熟させる準備をし、そのあと3日半のあいだ、外的な世界から完全に離れた状態に置か
れました。霊的な世界に導かれていく者には、入念な準備が必要でした。霊的な生命を認識できるように、魂の準備がなされた のです。三日半のあいだ身体は仮死状態に置かれ、魂は世界から離れて、外的な感覚には知覚されない領域に導いていかれ ました。そして、3日半ののち、魂はふたたび身体のなかに戻り、目覚めました。そのようにして秘儀に参入した者は、高次の世 界の表象として受け取ったものを思い出すことができ、霊的な世界にについて語ることができるようになりました。長期にわたっ て準備をしてきた魂を3日半のあいだ身体から抜け出させて、まったくちがった世界に導くというのが、秘儀参入の大きな秘密で した。魂は外界から離れて、霊的世界に入っていくのです。民族のなかには、霊的世界について告げることのできる人物が、つ ねにいました。聖書には鯨のなかでヨナの叫びとして、このことが書かれています。ヨナは準備が整って秘儀に参入し、霊的世 界を体験できたしるし、ヨナのしるしを持って、人々のまえに現われました。
これが秘儀参入のひとつの方法です。古代には、ヨナのしるしのほかには、いかなるしるしもなかった、とキリストは述べていま
す(ルカ福音書11章29節)。もちろん、古代からの遺産として、秘儀に参入することなしに、漠然とした曖昧な霊視状態で、上 方からの啓示をとおして霊的世界に上昇することはありました。
キリストは、そのような方法によって霊的世界に参入した人々とはちがう、第二の種類の秘儀参入者がいることを示そうとしまし
た。特別の秘儀参入を通過しなくても、血統によって、一種の高次のトランス状態で上方からの啓示受け取る人々がいることを、 キリストは示そうとしたのです。霊的世界に上昇する、この二つの方法が古代からあったことを、キリストは示唆しています。見 よ。そして、ソロモン王を思い出せ、とキリストはいいます。
この言葉によってキリストは、特別な秘儀を体験しなくても、上方からの啓示をとおして霊的世界を見ることのできる人物を示し
たのです。ソロモン王のところにやってきたシバの女王も上方の叡智の担い手であり、アトランティス時代にすべての人間が持 っていた、曖昧で漠然とした霊視力のすべてを受け継いだ人物でした。
このような、二種類の秘儀参入者がいたのです。ひとつは、ソロモンと、南の女王であるシバの女王の到来によって示されてい
る方法です。もうひとつは、ヨナのしるし、つまり外界から完全に離れて3日半のあいだ霊的世界におもむく古代の秘儀参入の 方法です。そして、キリストは、「ここにソロモンに勝る者がいる。ここにヨナ勝る者がいる」と、語ります(ルカ福音書11章31−3 2節)。ソロモンの場合のように、外から啓示がエーテル体に語りかけるのでもなく、ヨナの場合のように、アストラル体とエーテ ル体の準備の整った者のエーテル体に内から啓示が語りかけるのでもない、新しいものが世界に現れたことを示唆しているの です。キリストは、「人間の自我は、天の国に属するものに結びつくように成熟しなければならない。人間の魂のなかの処女的 な部分に、天の国の力が結びつく。その処女的な部分を、人間はキリスト原則から離れることによって崩壊させることがありう る。しかし、キリスト原則から流れてくるものに浸透されると、人間はこの処女的な部分を育成することができる」と、いおうとして いるのです。
ルカ福音書において、キリスト・イエスは、新しい要素として地上に現れたものを自分の教えに結合します。わたしたちは、あら
ゆる種類の古代の神の国の告知が、パレスティナの出来事によって変化したのに気づきます。キリストは、「ほんとうに、ソロモ ンのように啓示をとおしたり、ヨナのしるしの秘儀参入をとおしたりという方法によってではなく、神の国を見ることのできる者がお まえたちのなかにいる。しかし、そのような者も、ソロモンのしるしやヨナのしるしにかわるものを得なければ、この人生において 神の国を見ることはけっしてできず、そのまえに死ぬであろう」と、語りました。
秘儀に参入しなければ、死ぬまえに神の国を見ることはできないだろう、という意味です。しかし、そのためには仮死状態を通過
しなければなりませんでした。
しかし、死ぬまえに、いま新しい要素として世にやって来たものをとおして、神の国を見ることのできる者もいることを、キリストは
示そうとしました。弟子たちは、なにが問題なのかすぐにはわかりませんでした。キリストは、死ぬまえ、あるいは秘儀参入によ る仮死状態を通過せずに神の国の秘密を体験できることを、弟子たちに示そうとしたのです。ルカ福音書で、キリストは高次の 啓示についてこう語っています。
ほんとうに、おまえたちにいう。神の国を見るまでは死を味わうことがない者が、ここに立っている者たちのなかにいる。(9章27
節)
まわりにいる者たちは、自分たちが自我の作用、キリスト原理の作用を体験し、その作用によって直接霊的世界に参入する者と
して選ばれている、ということを理解しませんでした。霊的な世界が、ソロモンのしるしもヨナのしるしもなしに、開示されるべきだ ったのです。それは可能だったでしょうか。
キリストがこう語った後すぐに、キリストの変容の場面がきます。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子が霊的な世界に導かれ、
霊的世界にモーセとエリアとして存在するもの、そして、キリスト・イエスのなかに生きる霊的なものが、彼らのまえに現れました (ルカ福音書9章28−36節)。彼らは霊的な世界を見て、ソロモンのしるしやヨナのしるしなしに霊的世界を見ることができる証 しを得ました。しかし、彼らはまだ初心者であることも示されています。この出来事の力によって、彼らは物質体とエーテル体か ら抜け出て、眠り込んでしまいます。キリストは、彼らが眠っているのを見出します。霊的な世界にいたる第三の道は、ソロモン のしるしやヨナのしるしを通らないものです。当時、時代のしるしの意味するものを理解していた者は、自我が発達し、直接霊感 を受け、神的な力が直接自我のなかに働きかねねばならない、ということを知っていました。
当時の人間には、高度に進化した人物にも、キリスト原理を受け入れることができない、ということが示されるべきでした。キリス
ト原理が受け入れられはじめたと同時に、弟子たちがまだキリスト原理を受け入れる能力がないことが示されています。それゆ え、あとでキリスト原理を用いて、悪霊に取り憑かれた人を癒そうとしたときに、彼らの力は役に立たないのです。「おまえたちの 力がほかの人たちに流れ込むことができるようになるまで、私はまだ長いあいだおまえたちのもとに留まらねばならない」(ルカ 福音書9章41節)ということによって、キリストは、彼らがまだ出発点にしか立っていないことを示しています。弟子たちが癒せな かった者たちを、キリストは癒します。そして、その背後にある秘密を指し示しながら、「いまや、人の子が人々の手に引き渡さ れるべき時が来た」と、いいます。人間が地上での使命のなかで発展させるべきものが、しだいに人間のなかに流れ込むべき 時が来た、キリストという最高の姿において認識すべき人間の自我が、人間のなかに移っていくべき時が来た、という意味で す。
「この言葉を耳に受け入れなさい。いまこそ〈人の子〉が人間の手に渡される時だ」。しかし、彼らはこの言葉を理解しなかった。
その言葉は彼らには隠されていて、理解できなかったのである。(ルカ福音書9章44−45節)
今日まで、どれくらい多くの人が、この言葉を理解したでしょうか。しだいに多くの人がこの言葉を理解し、〈人の子=自我〉が人
間に引き渡されたことを理解します。「ルシファー的存在がまだ人間のなかに入り込んでいないころに活動していた古い力から、 人間は発生した。やがて、ルシファー的な力がやって来て、人間を引きずり降ろした。今日人間が有している能力のなかに沈み 込んだのだ。人間の意識のなかに、人間を低次の領域に引きずり降ろすものが混ざり込んだのだ」と、彼は語ります。
人間は二重の存在です。人間がいままで意識のなかで発達させてきたことは、遠い昔からルシファー的な力に浸透されてきた
ものです。人間のなかで無意識が支配している部分は、まだルシファー的な力が存在していなかった「土星」、「太陽」、「月をと おして進化してきたものの名残りであり、処女的な部分として、今日の人間のなかに流れ込んでいます。しかし、それは人間が キリスト原理をとおして、みずからのなかに形成するものなしに、人間に結びつくことはできません。今日の人間はまず、精子、 卵子の結合から発生した遺伝の結果です。このように成長することによって、人間は、はじめから二重の存在なのです。この二 重性は、すでにルシファー的な力に浸透されています。人間がまだ自己意識に照らされていないあいだ、人間がみずからの自 我によってまだ善悪の区別ができないあいだは、人間は今まとっているヴェールをとおして、かつての本源的な本質を示しま す。今日の人間のうちで、子どもらしい部分だけは、ルシファー的存在の影響に屈服するまえに人間が有していた存在の名残り です。
それゆえ人間には、「子どものような」部分と「大人の」部分があるわけです。大人の部分はルシファー的な力に、受胎のときか
ら浸透されています。ルシファーの力は、すでに人間が子どものころから浸透しているのです。普通の人生において、ルシファー が影響を及ぼすまえに、人間のなかに植えつけられていたものが表に現れることはありません。キリストの力がそれを、ふたた び目覚めさせねばなりません。キリストの力が、人間のなかの子どもの部分と結びつかねばなりません。キリストの力は、人間 が腐敗させた能力、たんなる知性から生まれた知恵に由来するものに結びつくべきではなく、子どものような部分として残ったも のと結びつかねばなりません。それが最良のものなのです。この子どものような部分をふたたび再生させ、そこから新たな果実 を実らせねばなりません。 |