仏陀からキリストへ





キリスト論

仏陀の出現後、五、六百年を経た時、特別の時期がやって来ました。仏教を改新する必要が生じたのです。仏陀によってもたら
された古代の最高の世界観は、新しい姿で人類の前に現れることになります。

キリスト存在の中には宇宙的な特質が存します。菩薩は皆、地上で生きる個々人から発展した、地球に属する存在です。キリ
ストは太陽からやって来て、ヨハネによる洗礼を通して初めて地球に歩み入り、三年間だけナザレのイエスの肉体の中に存在し
ました。地上では三年間しか働けないと決められているのがキリスト存在の特徴です。キリスト存在は、かつてゾロアスターが
太陽の背後に立つアフラ・マズダと呼んだ存在、インドの神仙たちがヴィシュヴァ・カルマンと呼んだ存在、ギリシア人たちが満ち
満ちているもの(プロレマ)の基盤となる存在、と呼んだ存在です。この存在はゴルゴタに血を流して以来、次第に地球の霊、地
球のオーラとなってゆきました。キリストを肉体の中に担ったイエスを知ることなしに、地球の霊としてのキリストを体験した最初
の人物はパウロです。

当時の「洗礼」は今日のような単なる象徴的儀式とは全く異なったものでした。当時の洗礼は、全身を水の中に沈めるものだっ
たのです。そのようにして、仮死状態に置かれることで、人間は特別の体験を持ちました。日常生活においても、水に溺れかけ
て「ショック」を感じた時、人間は今までの人生を大きな絵のような姿で見ることがあります。瞬間的に、死後に起こることを体験
するのです。つまり、エーテル体が肉体から離れ、肉体の足枷から自由になるのです。ヨハネから洗礼を受けた人々はそのよう
に、仮死状態にあってエーテル体が肉体から遊離し、死後に経験することを、前もって体験しました。ナータン系のイエスの洗礼
においては、更に特別のことが生じました。エーテル体が抜け出て、水中に沈んでいたナータン系のイエスの肉体に、キリスト
存在と呼ばれる高次の存在が入り込んだのです。ヨハネによる洗礼によって、ナータン系のイエスは、キリスト存在に貫かれま
した。福音書の原本には「今日彼に孕ませたのは私の最愛の子である」という言葉が書かれていました。「今、天界の子、キリ
ストが生まれた」という意味です。宇宙の中を活動する 神性によって、準備の整ったナータン系のイエスの全器官に、至高存在
が孕まされたのです。ヨハネによる洗礼のくだりに「今日彼に孕ませたのは私の最愛の子である」と真実が書かれていたので
す。

ところで、この時、ナータン系のイエスのエーテル体に結びついた存在は誰なのでしょうか。前キリスト時代においては、キリスト
存在を地上にではなく、太陽界に探し求めねばなりませんでした。ゾロアスターがキリスト存在を「アフラ・マズダ」と名付け、「地
上に目を向けても、この光の霊を見出すことはできない。人間の肉体の中に人間の精神が住むように、アフラ・マズダは太陽に
住む。地上に注がれる光が太陽霊アフラ・マズダの体である」と説いたのは正しいことでした。けれども、偉大な宇宙進化を通し
て、この高次の存在は地上に近づいてきたのです。見霊者はキリストが地球に近づいてくる姿を見ることができました。キリスト・
イエスの前駆者たるモーゼは、シナイ半島で稲妻の炎の中に地球に近づいてくるキリストを見ました。

この啓示にはどういう意味があったのでしょうか。地球に近づきつつあったキリスト存在は、まず鏡像の如き反射像として現れた
のです。満月を見上げる時、月に反射した太陽光線を私たちは見ています。「月光」は月に反射されて地上に注がれる太陽光
線に他なりません。燃える柴の中に、またシナイ山上の火の中に、モーゼが見たのは「キリスト」だったのです。月光が太陽光
線の反射であるように、モーゼはキリストのありのままの姿ではなく、キリストの「反射像」を見たのでした。月に反射した太陽光
線を「月光」と呼ぶように、モーゼは「キリスト」の反射像をヤハウェ(エホバ)と呼びました。ヤハウェはキリストが地上に現れる以
前の、キリストの反射像に他なりません。まだ、キリスト存在を直接目にすることができなかったので、ちょうど太陽の光が月に
反射して送り届けられるように、キリストは自らの反射像を示したのです。

かつて、宇宙の叡智に貫かれた人々は常にキリストを体験しました。キリストは様々な姿で自らを現したので、人々は様々な名
をキリストに付してきました。


キリスト再臨論
 
人類の進化の経過のなかで、存在の深みへの洞察は、しだいに独特の形態を受け取ったということを明らかにしておきましょ
う。地上における人類進化の使命は、太古の霊視力をしだいに消し去っていくことにありました。太古の霊視力として残されたも
のは、太古の霊視力の最良の部分ではありませんでした。最良の部分は、ます最初に消え去ったのです。残ったのは、アスト
ラル界を見る低次の霊視力であり、人間を衝動と情欲のなかで低次の領域に引きずり下ろす悪魔的な力を見る能力でした。私
たちは秘儀参入を通して霊的な世界と、人類のもっとも美しい思考と感情に関連する諸存在、諸力を見ることができます。しか
し、私たちは乱れた情熱、荒れ狂う官能性、むさぼるようなエゴイズムの背後に立つ霊的な力をも見るのです。秘儀参入者では
なく、人々の大部分に残されたのは、まさに低次の人間的な情熱の背後にいる悪魔的な力を見る能力だったのです。霊的な世
界を見る者は、もちろん、それらすべてを見ることができます。それは、人間の能力の進化に関連したことです。人間はひとつの
ものを、別のものを抜きにして獲得することはできないのです。(『ルカ福音書講義』イザラ書房P45)

今日の魂の能力は、感覚界を知覚し、感覚界を消化するのにもっとも適しています。以前、人間の魂がまだ霊視力を有していた
時代には、人間の魂は今日とはまったく違っていて、夢見るような状態を生きていました。

その時代には、人間はいかなる自己意識も発展させることができませんでした。物質的現象を識別する力を得る途上で、自己を
意識するために、古い夢見るような霊視状態は消え去り、人間は感覚の世界に限定されねばなりませんでした。将来、人間は
ふたたび霊視力を獲得し、同時に、自己意識を保持することができるようになります。

進化の歩みはゆっくりとしたものですが、それでも、物質的・感覚的知覚の意識状態がはじまった時期を正確に示すことができ
ます。キリストが地上に現れる3101年前です。それ以前は、自然な霊視状態を人間は生きていました。その霊視状態は次第
に消えてゆき、紀元前3101年から、バラモン教でいう小カリ・ユガ(暗黒時代)がはじまります。

暗黒時代のはじまりから3000年後、人間と霊界との新たな結びつきの可能性が生まれました。自我をもって霊的世界との結
びつきを達成する可能性、つまり、知覚が感覚に限られていながらも霊的世界を知覚する可能性が生まれたのです。この可能
性は、キリストの受肉をとおして生まれました。

人間の知覚能力がもはや物質的感覚の世界を超えることができないので、神が物質界に下らなければならなかったのです。で
すから、洗礼者ヨハネは、天界が私たちに近づくことができるように、魂の状態は変化されねばならないと予言したのです。

以前は、人間の霊視によって、ある段階までは天界に近づくことができました。いまや、人間は感覚を用いて、キリスト自身の中
に天界を見出さねばなりません。カリ・ユガの暗黒時代に人類が霊的世界との結びつきを失わないように、キリストは地上に下
らねばならなかったのです。

暗黒時代は5000年間続きます。紀元前3101年に始まった暗黒時代は、すでに1899年に終わりました。この時以来、人間
の科学にはまだ知られていないある能力が次第に発達しはじめています。20世紀において、人類の一部のなかで新しい魂の
能力が次第に発達しはじめています。たとえば、20世紀のうちに、人間のエーテル体を知覚することが可能になるでしょう。もう
ひとつの能力は、人間が自分の内面を見たとき、夢の中でのように、自分がこれからおこなう行為のモデルを見る能力です。特
別に素質のある人々は、もっとほかの体験もするでしょう。パウロがダマスコへの途上で体験したことが、多くの人々にとって普
通の体験になるでしょう。

20世紀にダマスコの事件を体験する人々は、キリストについての直接的な知を獲得し、キリストを認識するために文献に頼る必
要がなくなります。今日、秘儀参入者のみが有している直接的な知を持つようになるのです。今日、秘儀参入の手段を用いて得
られる能力が、将来、人類の普通の能力になります。この魂の状態、魂的な体験は神秘学において、「キリストの再来」と呼ば
れます。キリストは肉体にふたたび受肉するのではありません。キリストは、ダマスコへの途上でパウロに現れたときと同じよう
に、エーテル体の中に現れます。(『輪廻転生とカルマ』P155-P159)

ナザレのイエスの時代に肉体のキリストが見られたように、キリストのエーテル的形姿を見ることができるように進化した人々
が、1930年代から40年代にかけて地上に現れます。今から後3000年の間に、多くの人々がエーテル的なキリストを見るこ
とができるようになり、3000年後には福音書やキリストの生涯の記録を必要としなくなります。その人たちは自らの魂的生活
の中に現実のキリストを見るからです。


十三仏論

菩薩たちはいつも、自分たちの源根に十三人目の太陽神がいることを告げてきました。

キリストと菩薩とどのような関係にあるのでしょうか。この問いは地球進化の最大の秘密に関わるものです。今日の人間にとっ
て、この秘密の中に隠された圧倒的な力を感じ取るのはかなり困難になっています。宇宙と地球に関係する菩薩は十二人いま
す。紀元六世紀から五世紀にかけて仏陀となり、人類を慈悲と愛の教えの中に摂取するという任務を果たした釈迦も十二人の
菩薩の一人です。十二人の菩薩それぞれが個々の任務を持っています。釈迦が人類に慈悲と愛の教えをもたらすという任務を
持っていたように、他の菩薩たちも地球進化のそれぞれ別の時期に果たすべき任務を持っているのです。釈迦が仏陀になった
紀元前六世紀、五世紀から、次に弥勒菩薩が弥勒仏となるまでの現在の人類の課題は道徳の発展にあります。それ故、仏陀
の教えは今日の人類にとって特別大事なものなのです。地球進化が進むに従って、菩薩たちは次々に地上に下り、自らの任務
を果たしてゆきます。地球進化の全体を見渡すと、そのような菩薩が十二人いることが分かります。十二人の菩薩たちは力強い
霊の共同体を形成しており、次々に特別の任務を持って地上に下り、人類の導師となるのです。十二人の菩薩の集会(しゅえ)
する共同体が地球進化全体を導いています。十二人の菩薩たちは「師」として現れ、人類に偉大な霊感を与えます。

それでは、十二人の菩薩たちは、各時代毎に果たすべき任務を誰から受け取っているのでしょうか。十二人の菩薩の共同体の
中を覗き込むことができれば、十二人の菩薩たちの輪の中心に、十三人目の存在を見出すことができます。この十三人目の存
在は、十二人の菩薩たちのような師ではありません。この存在からは、叡智の実質そのものが流れ出ているのです。この存在
を囲んで十二人の菩薩が座しています。そして、この存在に眺め入って、菩薩たちは自分たちが地上にもたらすべき叡智を受け
取っているのです。この十三人目の存在は十二人の菩薩たちに智を注いでいます。菩薩たちはその智を人類に伝える「師」で
す。そして、この十三人目の存在は、菩薩たちが伝える叡智の本質そのものです。新たな時代毎に、この存在は菩薩たちに智
を注ぎ込みます。この十三人目の存在を、太古の神仙たちは「ヴィシュヴァ・カルマン」と呼び、ゾロアスターは「アフラ・マズダ」と
名付けました。私たちはこの存在をキリストと呼んでいます。キリストが十二人の菩薩の共同体の導師なのです。菩薩たちの合
唱を通して、キリストの教えは伝えられます。釈迦はヴィシュヴァ・カルマンの力をまといました。キリストを受け入れるナザレのイ
エスは、ヴィシュヴァ・カルマン、即ちキリストによって「身を飾った」のではなく、「香油を塗られ」ました。つまり、キリストに貫か
れ、浸されたのです。

予感や密儀を通して人間の進化の秘密を認識した者は、ある象徴図を通してこの秘密を見てきました。例えば北欧の密儀にお
いて、十二人の菩薩の集まりの象徴図が作られました。この古代の北欧の密儀は、霊的な進化の師である十二人の菩薩の共
同体捧げられました。十三人目の存在は人々に直接教えを説くことはなく、菩薩たちに叡智を放射しているのです。----薔薇十
字会の霊感を題材にしたゲーテの詩「秘密」では、主人公のマルクスは、キリストを囲む十二人の菩薩 の教えをキリストの教え
として語っています。教えを伝えることと共に、霊的実体をもたらすことが問題なのです。十二人の菩薩界を感得した者は皆、菩
薩たちの教えと共に、その中央に存する霊的太陽存在の実体そのものを地にもたらそうとしてきました。

菩薩たちを導く十三人目の存在自身が、ヨルダン川におけるヨハネによる洗礼によって、キリスト存在を受肉すべく準備されてき
たナータン系のイエスの体に受肉しました。三十歳になるまでにナータン系のイエスの肉体は完全なものとなり、キリスト存在は
その肉体に受肉して、三年の間、人間の姿を地上の人々の中で生きたのです。

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写真は、大分県臼杵市の「古園(ふるぞの)石仏」の「十三仏」である。かつては荒れ果てたまま捨ておかれていた場所だった
が、現在ではみごとに修復されて観光地化され、入場料を取ってお客に見せるまでになっている。しかし、この石仏群の由来が
実ははっきりせず、さまざまな伝説が伝わってはいるものの、その実態はいまだ謎のままである。ある時忽然としてあらわれ、
急激に衰退した。「臼杵石仏」のある土地はそのような場所なのである。

売店で買った『謎秘める国宝 臼杵石仏 石仏は何を語るか』と題されたパンフレットによると、この十三仏は右端から、1多聞
天、2降三世明王、3観世音菩薩、4普賢菩薩、5薬師如来、6釈迦如来、7大日如来、8弥勒菩薩、9阿弥陀如来、10文殊菩
薩、11勢至菩薩、12不動明王、13増長天と伝承されているそうだ。
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仏陀論

ルカ福音書を自らの内に作用させると、この福音書に含まれているもの全てが、巨大で圧倒的な霊界として、自分に向かって流
れてくるのを感じるようになります。仏教的世界観が全てこの福音書に流れ込んでいるからです。このことは霊的探究によって
明らかにされています。「ルカ福音書から流れ出るものは仏教だ」ということができるのです。とはいえ、仏教は全く独特な形で
ルカ福音書から流れ出てきます。素朴で簡素な感情に理解できる形で、仏教はこの福音書から流れてくるのです。

偉大な仏陀の教義として世に現れたものは、ある段階までの理念の高み、霊の純粋なエーテルの高みにまで上昇した者にの
み理解可能な世界観でした。仏教を理解するには本格的な準備、修行が必要です。

仏陀が純粋な霊的存在になって初めて行った偉大な行為は、ルカ福音書に登場するイエスのアストラル体の中に力を送り込ん
だことです。

仏陀の力は西洋の哲学者の世界観の中に流れ込んで、働いています。霊界から仏陀が西洋の哲学的生活を推進させている
のです。西洋の精神生活は霊界を理解するところまで達し、その後、やがて、迷路に入り込んでしまいます。

ライプニッツやシェリング、ソロヴィヨフに霊感を与えたのは、無私の精神で働き続けている仏陀なのです。西洋社会に仏陀とい
う名前が知られていなかった頃にも、仏陀は献身的な働きをしていました。

霊界における仏陀の任務はどのようなものでしょうか。高い叡智の力を永久に人々の心の中に燃え立たせるという任務です。世
界を貫くこの流れが仏陀の流れです。仏陀の流れは二十世紀にも概念化された形で流れています。私たちは霊的な形態の隠
れた真の意味を探究しなければなりません。仏陀の霊統に、ゴルゴタの秘蹟以来、もう一つの流れが加わりました。このゴルゴ
タから発した流れは人々の内面に作用するだけでなく、地球存在全体を貫くという形で、人々に受け入れられます。

釈迦がまさに菩薩から仏陀になろうとしていた時、釈迦はヴィシュヴァ・カルマン、つまり後のキリストに触れます。四門出遊にお
いて、釈迦はまず老人、次いで病人、死体を見て、人生の悲惨を知り、その後、老と病と死の人生を捨てた出家に出会います。
そして、釈迦は一端迦毘羅城に帰ります。そして、出家を決意して迦毘羅城を去る時、釈迦はヴィシュヴァ・カルマンから送られ
た力をまといます。菩薩はヴィシュヴァ・カルマン、後の「キリスト」の力で 身を飾ったのです。つまり、キリストは仏陀の中に結び
ついたのではなく、仏陀を取り囲んだのです。菩薩は三十歳になろうとしていました。菩薩はまだキリストを受け入れる完全な肉
体を持っていませんでした。菩薩から仏陀となることで、釈迦は完全な肉体を持つことになるのです。


弥勒菩薩論 
 
ゴルゴタの秘蹟が生じる前、仏陀の後を継ぐ一人の菩薩が地上に受肉し、ゴルゴタの秘蹟の準備をしました。ナザレのイエス
の生まれる一世紀前に、この菩薩はパンディラのイエスの中に受肉しました。仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスと、
キリストと呼ばれる宇宙存在に三年間貫かれたナザレのイエスとは別の存在です。パンディラのイエスの中に受肉した菩薩は
何度も地上に出現します。そして、今から三千年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送るのです。(『仏
陀からキリストへ』書肆風の薔薇P107-P108)

今日の霊学の内容は、浄飯王の子である菩薩が仏陀となった時に説いた東洋の霊智と変わるところはありません。釈迦牟尼
仏の説いた教えを実現するのは次に仏陀になる菩薩の仕事だと言われています。この菩薩は全世界に、真のキリストを啓示す
る光の智を伝えることになります。パンディラのイエスに受肉した菩薩はキリスト衝動の偉大な師となりました。このことは、菩薩
ヨサファットがいかにキリスト教の師バルラームから教えを受けたかを伝えている『バルラームとヨサファットの物語』が明瞭に示
しています。将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学が「善をもたらす者」と呼んでいます。今日の人間にはその概念を持
つことができない程の高次の段階の言葉の力が弥勒仏の中に存在することになる、と神秘学は教えています。高度の霊的感
覚器官によって世界の進化を知覚することによって、三千年後に弥勒仏が説く教えを知ることができます。その説法は象徴的な
形で語られますが、人類はまだ十分に成熟していないので、弥勒仏が語るような言葉を語ることはまだできません。

仏陀は、正しい意見、正しい判断、正しい言葉、正しい行為、正しい見地、正しい努力、正しい記憶、正しい確認の八正道という
形で、偉大な智を与えています。弥勒仏の語る言葉には霊力があり、それを聞いた人の中に道徳衝動が喚起されます。聖ヨハ
ネがキリストについて「そして言葉は肉となった」と書いたのに対し、弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されるでし
ょう。

弥勒仏の説法はキリストの力が浸透したものです。弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ型をとるであろう、ということが霊的な
探究の結果明らかにされています。古代において、人類の師となるべき偉大な人物が世に現れると、その人物は若い頃から特
別の才能と魂の資質を現したものでした。とはいえ、人生のある時期に至って、人格を一変させるような導師も存在します。その
ような人類の導師の自我は、人生のある時期に肉体の外皮から去り、別の存在の自我がその肉体に入るのです。イエスはこ
のような導師の典型です。イエスが三十歳の時、彼の自我は肉体から離れ去り、代わって、キリスト存在がイエスの内部を占領
しました。弥勒菩薩はどの転生においても、この型の生涯を送ることになります。

このような人物は少年時代に、彼が三十歳頃に菩薩になるであろうという前兆を現しはしません。弥勒菩薩が仏陀になる時、三
十歳か三十一歳の時に、他の存在が彼の肉体を所有します。このような菩薩は若い頃には決して自分の本来の姿を明かすこ
となく、他の存在が彼の肉体を占領する三十歳ないし三十一歳の時に、全く異なった霊格を現すのです。受胎の時点では肉体
に入らず、成長した人物を自分の外皮として占有する存在には、モーゼ、アブラハム、エゼキエル等がいます。

今日二つの霊的生命の流れが作用しているということです。一つは智の流れ、すなわち仏陀の流れで、智と良心と平和の崇高
な教えです。仏陀の教えを全人類の心の中に浸透させるために、キリスト衝動は必要になってきます。第二の流れはキリストの
流れで、審美的感情と洞察力によって、人類を智から徳へ導くものです。キリスト衝動の最も偉大な師は弥勒菩薩で、彼は三千
年後に弥勒仏になるまで何度も地上に受肉します。東洋のアカシャ年代記の記述は真実です。釈迦が菩提樹下で悟りを開い
てから五千年後に、弥勒は最後の地上への受肉をするのです。
 (関連ページ) ルカ福音書講義-弥勒菩薩論