社会の未来




社会有機体三分節化の基本理念
 
精神生活と法生活および経済生活の望ましい在り方は、これまで厳格に統一国家として形成されてきた社会を三分節化された
社会有機体に変えるときにのみ実現できます。法治国家に必要なすべての制度は民主的な議会の中で管理されます。これに
反して精神活動はすべて、この政治的法律的な組織から切り離され、自由に自主的に管理されます。他方、経済活動も政治組
織から切り離され、それ自身の在り方、それ自身の条件から、実際知識と専門能力に基づいて自主的に管理されるのです。

今日の主題に移る前に、まず始めに序論として、社会有機体三分節化の基本理念そのものを要約して述べておこうと思いま
す。昨日は私たちの社会の生活要求が三つの基本要素から生じてきていること、つまり、社会問題が精神問題、国家=法律=
政治問題、および経済問題の三つから成り立っていることを説明いたしました。近代社会の発展過程が洞察できれば、この三
つの生活要素、つまり、精神生活、法律=国家=政治生活および経済生活が次第に混沌とした状態で現代に到り、もはや相
互に区別のつかないものになってしまっていること、そしてこの混沌とした状態の中から現代の社会悪が生じていることを理解
するでしょう。

このことを十分に深く理解するならば----そしてこの連続講義を通してそれを十分深く理解するための基礎を与えることができ
れば、と思っています----、未来の社会の中では、公的生命としての社会有機体が、公的精神生活(特に教育制度における)
の自主的な精神管理、政治=国家=法律関係の自主管理および経済生活の完全に自主的な管理に分節化されざるをえない
ということがわかります。

現在は国家という唯一の管理体制が生活のこの三要素を統合しております。ですから今日、社会の三分節化について語ると
き、すぐに誤解が生じてしまいます。人びとは次のように言うのです。「精神生活のための自主管理と法律上または国家上また
は政治上の生活のための自主管理と経済生活のための自主管理とを要求するのは、文化会議と民主的政治議会と経済議会
という三つの議会を求めるのと同じだ」。----もしこのように言うとしたら、社会有機体三分節化の理念を全然理解していなかっ
たことになります。この三分節化の理念は、近代における人類社会の発展過程の中で、歴史的に生じた諸要求を本当に真剣に
受けとめようとしているのです。そして、その諸要求を、私たちは----すでにスローガンになってしまっていますが----三つの言
葉に要約することができます。しかしスローガンを使って現実を表そうとする場合には、正しい歴史的な衝動がこれら三つの言葉
の中に含まれていることを知っていなければなりません。その三つの言葉とは、人間生活の自由への衝動であり、民主主義へ
の衝動であり、そして社会共同体を形成しようとする衝動です。この三つの要求を真剣に受け止めるならば、それを唯一の管理
体制の中にひとつにまとめて押し込めるわけにはいきません。なぜならそうすれば、必ず一方が他方を妨害せざるをえなくなる
からです。

たとえば民主主義をすべての生活分野に適用しようする人は、次のように言うでしょう。「国民議会や国民投票の中で生かされ
る民主主義においては、ひとりの成人が別の成人と同等の地位に立って、決定を下すことができる。民主主義の地盤の上で
は、成人したひとりひとりの判断によって、どんなことでも決定されうるのだ」。

これに対して社会有機体三分節化の立場は、次のように語ります。「たしかに人生の中には、それぞれの成人が、それぞれの
民主的な意識から同等に発言するように求められている生活分野がある。すなわち法律、国家、政治の分野がそれである。し
かし民主主義を真剣に受けとめ、政治生活をまったく民主化すべきときには、精神分野と経済生活をも、その民主的な管理体制
の中に組み込むことはどんな場合にも決して許されない」。

民主的な管理を行うには何らかの議会が必要になります。けれどもそのような、民主的議会が精神生活という、教育活動をも含
めた領域の事柄を決定することは決して許されないのです。第四講でもっと詳しく取り上げるつもりですが、今日はその導入とし
て、次の点を指摘するだけにしておきたいと思います。つまり社会有機体の三分節化は、自主的な精神生活を求めるのです。
特に公的な場所において、学校その他の教育施設において、そのことが言えるのです。何をどのように教えるべきかは、何らか
の国の命令によって決定されるべきではありません。実際に教育にたずさわっている人たちが、教育活動そのものの管理者で
あるべきなのです。言い換えれば、小学校低学年から最高の教育過程に到るまで、教師は何をいかに教えるべきかについて、
政治的、経済的な権力から独立して、自主的に決定しなければならないのです。それは独立した精神団体そのものの内部でき
める事柄なのです。そして教育活動全体、さらには精神生活全体の共同管理者であるための時間もなお残せるような範囲内
で、個々の教育者は授業 のための時間を費やすべきなのです。

私は第四講で、精神生活のこの自主性のためには個人の精神的な在り方をまったく新しい基盤の上に置かなければならない、
ということを申し上げたいと思います。また偏見が行き亘っている今日、とても信じられないことでしょうが、次の事柄が可能でな
ければならないことも明らかにしたいと思います。すなわち、この自主性を通して、精神生活は国家生活や特に経済生活に対し
ても実りある働きかけを行うようになるなる、ということです。自主的な精神生活だけが、灰色の理論や世間知らずの学者的な
見方から離れて、実生活の中に働きかけ、私たちに経済生活にも役立ちうるような認識を与えてくれるのです。まさにこの自主
性を通して、精神生活は実生活に役立つものになるのです。判断力のあるすべての成人の判断が支配的であってはならない
のです。議会主義によって精神生活を管理しようという考えは、排除されなければなりません。精神生活においても民主的な議
会が支配すべきであると信じる人は、社会有機体三分節化の方向を根本的に取り違えているのです。
 

共同利益社会
 
古い権力社会が交換社会に移行したように、今日では進化の深奥から来る衝動が、この交換社会を特に経済の地盤の上で、
新しい社会に変えようとしています。なぜなら交換社会は、次第に精神生活を自分の中に取り込んできたことによって、自由な
精神生活を不自由なものにし、それを社会から疎外し、そして社会そのものを単なる経済社会にしてしまったのですから。たとえ
過激な社会主義者がそのような単なる経済社会をむしろ求めているとしても、今日の人類の極めて強い内的衝動は、交換社会
を特に経済の領域で私が共同利益社会と名づけるものへ移行させようとしているのです。この名称にはひっかかるところがある
でしょうが、しかし新しい事態に対する名称なのです。新しい事態に対しては、一般に適切な名称を日常語の中から見つけ出す
のが困難です。交換経済は共同利益社会へ移行しなければなりません。 

現代では個人の生活圏がますます地球上に広がり、それと共に事態がますます多様化して現れるようになりました。狭い地域
内での経済である古い国民経済に代わって、世界経済の時代になりますと、文明世界のほとんどすべてのところで、世界の別
の場所で生産されたものを消費するようになります。しかしそうなっても、人間の理念や人間の魂の基調はこの世界要求に追い
つけず、世界経済を可能にする諸制度に従って世界経済を運営するのに人びとは大わらわになっています。

それでは世界経済はどのような条件の下でなら可能なのでしょうか。----昨日の講演で述べましたように、人びとが未来へ向
けて新しい社会秩序を形成する必要を理解したとき、つまり古い暴力利益社会や現在の交換利益社会の代わりに、共同利益
社会を形成する必要を理解したとき、はじめてその可能性が見えてくるでしょう。(中略)

この共同利益社会という、未来の国家が求めるであろう社会形態は、国際問題との係わりにおいて、どのような在り方をしなけ
ればならないでしょうか。経済生活との関係における国際問題はどうあるべきなのでしょうか。私たちにわかることは、世界は世
界経済を求めているのに、その世界経済の中で個々の国民国家が個々別々に分かれて存在しているということです。

個々の国民国家はそれぞれの歴史的な成立条件の相違を別にすれば、一緒に生活している人びとの利己主義から生じてくる
ものによって、まとまりを見せています。最も高貴な民族性の表現である文芸、芸術その他の中にさえも、利己主義から生じてく
る想像力があって、それが民族の諸集団を結びつけています。

さて、この民族の諸集団が世界経済の全領域の中に入り込みます。それは19世紀の間にますます強力に入り込み、そして20
世紀初頭にその頂点に達したのです。言い換えれば、かつての古い暴力社会を想わせるいろいろな利害関係がこれまでの国
家間を支配していましたが、次第に交換社会の原則が国際社会の中で優勢になり、20世紀の初頭にその最盛期を迎えたので
す。

他の諸国家に商品を提供したり、他の諸国家からそれを受容したりするそれぞれの国家の生産活動、消費活動は、すべてそれ
ぞれの国家の利己主義によってきめられ、それぞれの国家の利害関係だけによって支配されてきました。国家の相互関係はも
っぱら通商の原則だけによってきめられました。それは商品の循環に関する交換社会の支配原則に従っていました。

しかし現在、単なる交換社会の原則だけではどうにもならないところまで来てしまいました。そして「何とかしなければならなくな
った」ことが、今度の世界大戦の破局を惹き起こした主要な原因だったのです。あとから次第に明らかになってきたのは、世界
経済が求められている一方で、世界経済に関わるそれぞれの国家が世界経済を促進しようとはせず、関税その他によって門戸
を閉ざし、世界経済の成果を自分だけのために利用しようとしてきたことでした。このことが(第一次)世界大戦の破局を招いた
のです。たしかに別の諸原因も働いていましたが、破局を招いた主要な原因のひとつは、このことだったのです。

単なる交換社会の諸原則とは異なる諸原則に従って、広範囲に亘る経済行為を行えるようにすることが、国際社会にとっては
何よりも必要なのです。共同利益社会においては、個人が経済の全領域、商品の消費と生産と循環とに関心をもって働くことが
必要になるのですが、それぞれの個別国家にも他国に対する真実の関心をもとうとする衝動が働いていなければなりません。
民族間に「偶然の市場」に似たものを形成するのではなく、民族相互の真に内的な理解を育成することが大切なのです。(中
略)

法の分野においても、自由な精神との結びつきがなければなりません。(中略)しかし、抽象的な仕方で精神について語るだけ
ではそのような理解を求めることはできません。精神を本当に徹底して自分のものにしなければ不可能です。精神とは本来、苦
労して手に入れるものなのです。このことを現代人は理解しようとしません。人びとは、精神が物質中心の社会要求に働きかけ
ねばならない、と語っています。しかしただ精神に訴えかけることしかできずにいます。その人びとは自分が善意で語り、自分が
十分に社会道徳を身につけている、と思っているのですが、しかし次の点を一度よく考えてみる必要があるのです。----「たし
かにわれわれは精神をすでに身につけている。しかしわれわれが今日、世間に訴えかけようとしているのは、われわれがすで
に身につけているこの精神のことなのか。もしそうだとしたら、われわれを現在の状況に導いた精神を再確認しろ、と訴えかけて
いることになる。われわれはこの同じ精神によって、新しい状況へ到ることができるのだろうか。そんなことはできない。今は新し
い精神が必要なのだ。しかし新しい精神を手に入れるには、それなりの努力が求められる。そして政治や経済から独立した精
神生活の中でそのような努力がなされねばならない」。

一体世界経済はどのように営まれるべきなのでしょうか。世界中の人びとが経済生活を個別的な仕方で形成していきますと、
相互の間に精神的、法的な関係が生じます。必然的にそうならざるをえません。それぞれが個的な仕方で行う精神的、法的な
働きは、他の人びとの経済生活を理解するための手段でもあるのです。それが本当に世界経済を営むための手段になるので
す。そのような手段が作られないときには、いつでも国家が世界経済の中に割り込み、世界経済を国家の利害関係のために利
用しようとするでしょう。他国に対する理解なしにそうしようとするので、どうしても不調和が生じないわけにはいかないのです。

それではそのような世界経済はどうしたら本当に生じることができるのでしょうか。国家の精神機構や法機関が経済を支配しな
いときにのみ、それが可能になるでしょう。なぜなら個々の経済構成体は個別的な在り方しかできないからです。それを精神的
に理解するときにのみ、人びとは一般性、統一性へ到ります。そのときには地球上のすべての土地においても、この理解の輪を
拡げることができます。地球がさまざまな地域の個別性の拘束から解放されるためには、この理解の統一性が必要なのです。

さて、人間精神は、客観的な理解力を発達させながら、諸国民の相互理解を可能にさせることができますが、人間の消費要求
もまた、国家の枠を超えていくのです。その要求は国家的ではなく、国際的なのです。ただその国際性は精神の国際性の対極
に位置しています。精神の国際性は理解を通してなされます。他の国民性をもって愛をもって理解しようとします。すでに述べた
意味で、国際性にまで人間愛が拡がるのです。しかし、利己主義もまた国際的でありうるのです。ただしその利己主義は、世界
の生産体制が共通の精神的理解、共通の精神的統一性から生じるときにのみ、有益な国際性に達することができます。民族
的利己主義からでは、共通の利己主義に基づく共通の消費体制を作り出すことはできません。ですから私が述べたように、共
通の愛から生じるものが、精神的観点から生産体制を支配できるのです。


アジアの背教者(1)
 
世界問題(1921年8月28日 週報「ゲーテアヌム」第一巻二号)

11月に開かれるワシントン会議の結果に世界中の関心が集まっている。西洋列強のこの会合の議題として、軍縮と太平洋の
問題があげられているが、人びとが真剣に考えているのは後者だけであって、前者は一種の道徳的な装飾品と思わなければ
ならない。事実、北アメリカ、イギリス、日本という、今日の世界史がそこに依存しているところの三大強国の視線は、太平洋に
集まっているのである。その際何に関心が向けられているかを調べてみると、その関心の中心になっているのが経済問題であ
ることがわかる。人びとは経済上の利益に見合った軍縮を行うか、その利益に応じた軍備を行うかしようとしている。そうすること
しかできないでいる。各国の国益に応じて、経済問題も対処していかざるをえず、他の問題は経済活動の光の下でしか、扱わ
れざるをえないのである。

しかしヨーロッパとアメリカの思考方式は、それがそれぞれの歴史によってもたらされたままのものである限りは、アジアでこの
上ない抵抗を受けることになるであろう。ロンドンの英連邦会議での南アフリカ連邦首相スマッツの発言は、多くの人にとって大
変に 重要なものであった。彼は、未来の政治はもはや大西洋や北海にではなく、今後の半世紀間は太平洋に目を向けなけれ
ばならなくなるだろう、と語った。しかしそうであったとしても、この方向で為される西洋人の行動は、アジア人の意志と衝突する
に違いない。ほぼ50年前から始まった世界経済は内的にますます発展していき、アジア諸国民をもその活動圏内に引き入れる
ことになるであろう。

けれども民族の相互理解の現存する諸条件にさらに別の諸条件が加わらなければ、このことは良い結果をもたらさないであろ
う。アジア諸民族の信頼を得ることができず、彼らと共に経済活動行うことができないであろう。純粋に経済の地盤においてだけ
では、或る程度までの信頼しか得ることはできない。経済だけでは人びとの意図に充分応えることはできない。アジア人の魂を
つかむことができなければならない。そうでなければどんな対応もこの人たちの不信感によって覆いをされてしまうに違いない。

こう考えると、今日の世界問題は最大限の射程距離をもってわれわれに迫ってくる。西洋人は数世紀の間アジア人の不信感を
呼び起こすような考え方をし、感じ方をしてきた。アジア人がこれから西洋の科学とその技術成果をどれ程知るようになろうとも、
それは彼らの心をひきつけず反発させるだけであろう。彼らが同じアジア人仲間である日本人の中に西洋文明への傾斜を見る
とき、日本人を真のアジア精神の背教者と見做すであろう。彼らは彼らの魂の生活の内的な豊かさに較べて、西洋文化をもっと
低次のものと見做している。彼らは物質的進歩の点で立ちおくれていることに注意を向けない。ただ魂の努力だけを見る。そし
てこの努力の点では彼らの方が西洋人よりも優位に立っていると思っている。西洋人のキリスト教に対する態度も、彼らの宗教
体験の深さにまで達しているとは見ていない。この点で今彼らの知るところとなったものは、彼らにとっては宗教的唯物論でしか
ない。そしてキリスト教体験の真の深さは今、彼らの目の前には現れていない。

西洋の諸民族が魂のこの対立を世界政治の見方の中に取り入れなければ、解決不可能な問題の前に立たされてしまうであろ
う。この対立を考えることを感傷的だと思い、実際家には関係のないことだと思う限り、人びとは世界政治を混沌の中へ追い込
んでしまうであろう。これまでは夢想家のイデオロギーにすぎないと思ってきた事柄の中に、実際的な力を認めることを学ばなけ
ればならない。

そして西洋はこの発想の転換をすることができる筈なのである。これまでは西洋の本質の外側だけが発達してきた。アジア人
が理解しないこと、決して理解しようとしないであろうことを、西洋人は達成した。しかしこの外側は、これまでその本質をあらわ
さなかった内的な力から生じたものである。この内的な力を発展させることができなければならない。そうできたときには、物質
生活の上でアジア人にとっても世界的な価値を示しているような成果があげられるであろう。

もちろんこのような主張に対しては、次のように応じることができる。「野蛮なアジアに較べれば、西洋には内面化した深い心情
があり、高次の文化がある」。たしかに正しい。けれどもそんなことではなく、西洋人が深い魂の本質を発達させることができる、
ということが大切なのである。それなのにこれまでの西洋の歴史は、魂を公的な社会生活の中にはもち込まないように人びとを
仕向けてきた。アジア人の魂は子どものようであるかも知れない。表面的でさえあるかもしれない。しかしこの魂をもって彼らは
公的な社会生活を営んでいる。私の言う対立は、倫理上善か悪かということとは無関係である。同様に美しいか醜いか、芸術
的か非芸術的かということとも関係はない。私が言いたいのは、アジア人が外なる感覚世界の中でも彼らの感性や精神を共体
験していのに対して、西洋人が世界に向き合うときには魂を内部にしまい込んだままにしている、ということなのである。アジア
人は感覚を働かせて生きるときにも精神を発揮する。しばしば悪しき精神をも発揮するが、精神であることには変わりない。西洋
人は内面生活においてどれ程精神と密接に結びついているとしても、感覚生活はこの精神を逸脱して、機械的に考え出され秩
序づけられた世界に向かって努力していく。

もちろん西洋人はアジア人のために精神的な考え方や感じ方を身につけようとはしないであろう。そうするとしたら、もっぱら自
分自身の魂の要求からそうしようとするであろう。決してアジア問題がそのための動機となることはあるまい。しかし西洋の物質
文明は、その中に留まり続けることに満足できないところにまで達した。その内部で人びとは自分の人間性が内的に空虚にな
り荒廃していく、と感じさせられている。西洋人の魂は存在全体の内面化を達成するために、精神的な生活態度を求めて努力し
なければならない。そうでなければ、進歩の現段階に立つ自分を本当に理解しているとは言えない。

この努力は西洋そのものが現代という時代によって要求されている事柄なのである。それが時間的に、世界政治上必要となっ
た東洋への眼差しと一致しているのである。魂の生活を改革しようとする意志がなければ、これ以上の人類の進歩は不可能だ
ということに西洋人が気づかぬ限りは、時代の大きな課題について救いがたい幻想に陥り続けるであろう。アジア人が魂の偉
大さと呼んでいるものの前に西洋人が立たされたとき、魂が羞恥心にふるえないでいられるだろうか。

そして西洋人が物質上の成果の補足物として、古代東方の精神性や魂の遺産を受け取ろうとするのは、錯覚でしかない。西洋
人が自分の科学、技術、経済能力を真に人間にふさわしいものにすることのできる精神内容は、西洋人自身が自分の中で発
展させることのできる能力から来るのでなければならない。多くの人が「光は東方より来る」と語った。しかし外の方からやってく
る光は、それを内なる光が受け取るのでなければ、光を知覚したことにならない。

魂のない世界政治は魂のあるものにならねばならない。たしかに、魂の発達は人間の内密なる要件である。しかし内面化され
た魂の生活を伴った人間の行為は、すでに外なる世界秩序の一端である。アジア人がヨーロッパ人から学ぶコマーシャリズム
は東洋においては退けられる。精神内容を開示する魂だけに信頼が与えられる。中国を西洋列強に利益を提供する経済領域に
するにはどうしたらいいか、という問題に答えるのが実際的なことだと思うとしたら、それは古い思考習慣以外の何ものでもな
い。アジアに住む人たちの魂とどうしたら理解し合えるのかというのが真に実際的なこれからの問題なのだ。世界経済とは、そ
のために見出さねばならない魂にとっての外的な身体であるにすぎない。

私の時代考察がワシントン会議で始まり、魂の要求で終わるのは、人によってはイデオロギー的な態度だと見るかもしれない。
しかしわれわれの忙しい時代においては、今の理念蔑視者がいつ見解を改めて、魂を無視することは実際的ではない、と言い
出すかもわからないのだ。 
 


アジアの背教者(2) 
 
世界問題における精神生活の忘却(1921年11月6日 週報「ゲーテアヌム」第一巻十二号)

ベトマン=ホルヴェークの遺著『世界大戦の考察』が近く刊行されるが、その中に次のような一節があるそうである。「ヨーロッパ
の混乱と共に、今、われわれの敵たちが世界に約束した、自由と正義の時代が始まる」。ヨーロッパの公的生活にその地位に
よって大きな影響力をもちえたベトマン=ホルヴェークのような人物をこの一節に見られる方向の考え方へ導くためには、世界大
戦が必要だったのである。しかし彼はこの文章を書いたとき、すでに権力の座から退いていた。

ヨーロッパにおける民衆の生活状況は世界大戦によって生じたのではない。それ以前からそのような状況は存在しており、そし
てそのことが大戦の原因となったのである。その生活状況は、今大戦を通してはっきり表面に現れてきた。

公的生活の指導者たちは民衆の生活の中に存在する諸力を見ようとしなかった故に、恐るべき破局を回避することができなか
った。彼らは外的な権力関係だけに標準を合わせてきた。だが現実の生活は民衆の魂の在り様の中に根を下ろしていた。

混乱の中にひとつの明かりを点じるためには「民族の魂の在り方を理解せずに、公的要件を健全な方向へ向けることができな
い」という洞察をもつようにならなければならない。

ワシントン会議を考える人の眼は、今、極東の日本へ向けられている。しかしここでもその眼は外的な権力手段に呪縛されてい
る。支那とシベリアにおける西洋の経済的利害関係を十分満足できるようなものにするためには、日本にどう対処したらいいの
か、と人びとは問う。

もちろん人びとはそのことを問わねばならない。なぜなら、この経済的利害関係は存在しており、そして西洋の生活はそれが満
足させられなければ、先へは行けないのだから。しかし人びとは、今日考えている手段によってのみ、この利害関係が何らかの
軌道に導かれる、と思い込んでいる。本当は何が生じなければならないのか。

日本は現在、或る関係においてアジア的生活のもっとも前衛的立場に立っている。日本はもっとも外的にヨーロッパ形式を取り
入れた。だから人びとは同盟、条約その他によって、政治的に西洋の慣例に従ったやり方で日本に対処できている。しかし民族
魂の特質に関しては、日本は今でもアジア的生活全体に結びついているのである。

実際、アジアは古い精神生活の遺産をもっており、日本にとってはそれに優るものはない。この精神生活は、日本を満足させる
ことのできないような状況が西洋によって作り出されたときには、強力な焔となって燃え上がるであろう。しかし西洋の人びとは
単なる経済的な手段によってこの状況に秩序を与えることができると信じている。人びとはこのことによって、此度のヨーロッパ
戦争よりも、もっと恐るべき破局のための出発点を作っているのである。

今日、世界全体にまで広がった公的用件を精神的衝動の介入なしに遂行することは許されないであろう。アジアの諸民族は、
西洋が彼らに一般人間的な性格をもった諸理念をもたらすことができるなら、西洋に対して物わかりのいい対応をするであろう。
彼らは、人間が世界全体との関連のなかで存在していること、人生はこの世界関連にふさわしく社会的に整えられねばならな
いことを理解するであろう。東洋の古い伝統の中にありながら、今、彼らが暗い感情に促されて革新を求めて努力している事柄
について、西洋が何か新しいことを与えてくれそうだ、と東洋の人びとが思うとき、西洋人と東洋人とは理解ある協力体制を作り
上げるであろう。しかし人びとがそのような東西協力による公的な働きを非実際的な人間の空想にすぎないと考えるならば、た
とえワシントンにおいて、軍縮が世界平和にとってどんなにすばらしいことかと話し合ったとしても、最後には東洋が西洋に対し
て戦争をしかけてくるであろう。

西洋は自分の経済目標を達成するために、世界の安定を求めている。東洋は、西洋が精神的に価値あるものを東洋に提供す
ると信じたときにのみ、その経済目標に同調するであろう。今日の大きな世界問題の秩序は、精神生活と経済生活とを正しい
関係に置くことができるかどうかにかかっている。

われわれが社会有機体の中での精神生活を本来の自由な基礎の上に置かない限り、このことは可能にならないであろう。西
洋は精神的発展を続ける可能性を持っている。西洋は自然科学的、技術的な思考方法によって、これまでに蓄積した財宝の中
から精神にふさわしい世界観を取り出すことができる。しかしこれまではこの財宝の中から、機械的=唯物的な見方しか取り出
してこなかった。公的な思考は公的社会生活の中で精神的なものを経済的なものに組み入れた。西洋の素質に内的に強く組
み込まれている精神の自由な発展は、精神生活の管理が社会生活の別の要因である政治や経済と結びついてしまった故に、
妨げられている。高次の魂に関心を寄せるひとりひとりの人間は、東洋からその古い遺産を受け取り、それを外的な仕方で西洋
の精神生活に接ぎたそうとしている。「東方からの光」はそのような前提の下では西洋にとっての貧困の証拠であるだけはな
い。それは恐るべき告発なのである。それは西洋が陰惨な利害関係によって、自分の光を見ようとしていない事実に対する告
発なのである。

西洋における精神的価値を高揚させることこそ、人類が今日の混乱を克服して、何もできずに混乱の中でさまよい続ける状態か
ら脱却する唯一の道である。この基調をもった意欲を非実際的人間のユートピア的=神秘的な夢想と見做す限り、混乱はさらに
続くであろう。人びとは平和について語るであろう。しかし戦争の原因を取り除くことができない。最近のように、かつて権力をも
っていた個人(注)がまたそのような権力を手に入れようと努力している様を見るとき、ヨーロッパの運命について深く憂慮せざる
をえない。状況が極めて不健全であり、そのような憂慮をもたざるをえないことについて、私たちはよく考えなければならない。

(注)カール一世。オーストリア皇帝、1921年の復活祭と10月にクーデターによってハンガリーの王位につこうとした。


文明の死をもたらすもの

レーニンやトロツキーについては次のように言わねばなりません。特定の地域だけでも、あまりに長期間彼らの考える政治が支
配的となったら、それは文明の死をもたらし、そして近代文明が達成したすべてのものを破滅に追いやるであろう、と。
(関連ページ) ルドルフ・シュタイナーの「大予言」- ソ連は、その70年後に崩壊した  ルドルフ・シュタイナーの「大予言」2-ソラト
の憑依と共産主義思想の蔓延 


イエス教

人類の大半の人びとは魂の深層で働いているものについて、何も知らずにいます。ですから精神生活を単なる概念と表象の働
きだと思っています。そしてこの表象や概念の中で、かなり途方にくれている自己を感じています。なぜなら概念そのものは、そ
れ自身ではどんな内容ももっていないからです。そのような純概念的思考を偏愛してきたのが支配層のこれまでの通例でした。
しかし純概念的思考への偏愛は別の結果をも生みました。この純概念的思考はそれ自身では無力ですので、外なる感覚的現
実に----つまり感覚によって知覚される故に否定されえない確かな現実に----従おうとする傾向をもっています。外なる感覚
世界への信仰が、近代人の概念の無力感から生みだされているのです。

概念生活のこの無力感は精神生活のすべての分野に現れています。学者は好んで実験を行い、それによって感覚界にはこれ
まで存在していなかったような何かを創り出そうとします。しかしそのようにして概念の力で感覚界を作り替えたとしても、感覚界
を超えることはできません。なぜなら概念そのものが現実を含んでいないのですから。

芸術家もモデルを模写したりして、外的対象に依存することにますます慣れていきます。芸術においてもますます外的な感覚的
現実の研究に没頭することにますます慣れていきます。芸術においてもますます外的な感覚的現実に没頭するのが社会の指
導層の通例でした。精神から創造し、精神を芸術の手段によって表現する能力はますます失われていきました。人びとはもっぱ
ら自然主義に向かい、外界で自然そのものが表現しているものを模倣しようとしています。なぜなら抽象的な精神生活からは、
何も独自に形成されはしないからです。

近代芸術の発達を考察しますと、このようなことがいたるところで実感できます。近世の芸術はますます徹底して外に見えるも
のを表現しようと努力してきましたが、その努力は印象主義において頂点に達しました。印象主義以前の芸術家たちが外的対
象を芸術の中で再現しようとした努力を受けて、それを最後まで徹底させようとした印象主義者たちは、次のように言ったので
す。----目の前の人物や風景を描くとき、私は自分の印象を再現してはいなかった。私が森の前に立つとき、太陽が森を照らし
ているが、しばらくするとその輝きは以前と変化している。自然主義的であろうとする私は、一体何を捉えればよいのか。外界が
私に示してくれるものは、決してその通りには捉えられない。なぜならどの瞬間にもそれは別の表情をしているから。描こうとす
る人物も、笑っているかと思うと、次の瞬間にはしかめっ面をしている。一体何を描いたらいいのか。笑っている顔の上にしかめ
っ面の顔を重ねて描くべきなのか。

外にあるものの瞬間的な姿を表現しようとすれば、その対象をそのままでいるように強制しなければなりませんが、自然は決し
て強制されようとはしません。そこで人間を強制してモデルとして座らせ、望むポーズをとらせるのです。しかしそうやって自然を
模倣しようとしても、その対象は硬直したような印象しか与えません。ですからどうしてもうまくいきません。----そこで印象主義
者たちは移りゆく自然の一瞬の印象だけを捉えようとしたのです。しかしそうなると、もはや完全に自然主義的であるとは言えま
せん。こうして人びとは自然主義に徹するために印象主義に向かうのですが、印象主義はもはや自然主義に留まることはでき
ませんでした。そこで全体が逆転しました。印象主義者の中の何人かはもはや外的印象をではなく、どんな原始的なものであっ
ても内部から立ち現れてくるものを表現しようと試みるようになりました。内なるものをしっかりと捉えようとしたのです。この人た
ちは表現主義に辿りついたのです。

そしてこの同じ経過が道徳生活や法生活の分野にも見ることができるのです。いたることろで抽象的な精神生活への偏愛が現
れています。近代的人間の発展を正しく見ることができれば、そのいたるところに抽象への努力を認めることができます。近代プ
ロレタリアートの場合、このような努力から何が生じたでしょうか。プロレタリアートが機械の前に立たされ、無情な近代資本主義
の中に組み込まれたとき、その運命のすべてが経済生活だけと結びつけられました。市民たちに芸術における自然主義をもた
らしたのと同じ考え方、感じ方がプロレタリアートに唯物史観をもたらしたのです。プロレタリアートはいたるところで、市民社会の
内部で形成されたものから最後の帰結を引き出しました。そしてその結論が今、市民社会をひどくおびやかしています。

市民社会の内部で、人びとはどのような仕方で宗教と関わってきたでしょうか。以前はキリスト教秘蹟の少なくとも先祖返り的に
暗い観念をもっていました。今日の抽象的な精神生活においては、もはやそれについてのどんな観念をも作ることができませ
ん。ですからキリスト教の発展の始めの頃の感覚世界の内部で演じられた事柄、つまりキリスト教ではなく、単なるイエス教の
教えだけを問題にしてきました。キリストはますます「人間」として考察され、その一方で超感覚的世界に属するキリストは人間
の視野からますます消えていきました。抽象的な魂ではキリストへの道を見つけ出すことができませんでした。イエスで満足し
ておりました。プロレタリア意識はそれを見て何を感じたのでしょうか。プロレタリアートは次のように言いました。----一体われ
われは何のためにイエスについて特別の宗教を必要としているのか。ブルジョアたちはすでにイエスをナザレの素朴な男にし
た。もしイエスがナザレの男であるなら、イエスはもちろんわれわれと同じような人間にすぎない。われわれは経済生活に依存し
ている。なぜイエスが経済生活に依存していなかったと言えるのか。イエスが単なるナザレの素朴な男であり、彼が置かれてい
た経済状況に従って教えを告げていたとすれば、その彼をまったく新しい人類期の創始者と呼ぶ権利があるだろうか。われわれ
はむしろキリスト教創設期の経済状況を研究しなければならない。そしてその当時のパレスチナの経済秩序に従って仕事をする
ことをやめた素朴な職人が、放浪の日々にさまざまな考えを語ったときの事情を研究しなければならない。そうすればなぜイエ
スがあのように語ったのか理解できるであろう。

近代プロテスタント神学の最後の帰結はこのような唯物論的イエス論なのです。
(関連ページ) あたまを育てる からだを育てる-近代人の宗教観 ヨハネ福音書講義-イエス教

一昔前に西洋世界で話題になったニコス・カンザキス原作の映画『最後の誘惑』、そして大ベストセラーとなり、映画化までされた『ダ・ヴィンチ・コード』
の発想の土台も上記のような〈近代の西洋人たち〉の「変容した精神生活」が土台とならなければ、けっして書かれることはなかったでしょう。これらは
まさに「近代精神が生み出した作品群」のなかの突出した一部分です。そしてアジアの一角に住み、政治的に右であれ左であれ、今や宗教感覚(人間
を超えた存在が人間の良き前進を見守っているというような感覚)というものを「唾棄すべきもの」と思いなすことに「深い満足感を感じている知識人た
ち」や、あるいは「自分を利口だと思っている人々」は、このような本の出現を大歓迎することでしょう。事実大歓迎したのです。(抹茶の付記)06.05.13