あたまを育てる からだを育てる
無宗教の学校
授業を宗教的基盤なしに行なうことはできません。無宗教の学校というのは幻想です。ヘッケルの言う「世界の謎」にも、宗教が
あります。宗教と戦う者には、シラーが「宗教から離れて」と言うように、高い観点からの反駁と、非常に低い立場からの反駁が
あります。
しかし、何らかの理論が宗教の代わりにはなりません。宗教史が宗教の代わりにはなれません。深い宗教的な気分を基調とす
る人は、宗教を教えることもできます。(P26-P27)
ヴァルドルフ学校の授業
今日の授業が未来に、頭脳労働と手仕事のあいだに宿命的な断絶をもたらすことがあってはなりません。
青年とともに現代を形成することに、古い世代はほとんど理解を示しません。そのために、国際的な青年運動が発生しました。
青年の本性をよく洞察・把握しないと、その運動はますます過去に対する際立った対立へと向かい、親子間の争いへと突き進
むにちがいありません。
ヴァルドルフ学校の教師は、一方では生徒に、生活のなかの設備がかつての世代によってもたらされたものであること示して、
感謝の感情を目覚めさせるようにします。他方では、できたものが、いかに発展・改良・精製されねばならないかを示します。
ヴァルドルフ学校では、青少年を器用で有能にすることに、あらゆる努力が向けられます。決して理論ではなく、いつも生活から
出発するので、できるだけ多くの美しさを子どもにもたらし、すべてを芸術的に把握するよう教えます。実際、美的感覚を与えれ
ば与えるほど、子どもが文明の機構のなかに導き入れられるときに、害を受けることが少なくなります。子どもが絵画や彫刻に
対する理解を習得すると、もはやほとんど避けることのできない大都市での生活が安定したものになります。現代に轟くリズム
が子どもを砕くことは、もはやできません。
美は美術館のなかに閉じ込められているべきではありません。しだいに、生活のなかに美が浸透していかねばなりません。
(P92-P93)
近代人の宗教観
宗教は、かつては知的・悟性的な証明と関わりがあるものではなく、精神世界の観照に基づいていましたが、いまでは、証明で
きる合理主義的な理論になりました。
極端な宗教家は、すべての宗教は真実ではない、と証明するようになっていきました。結局、それは自明のことです。夢の世界
を日常の意識のなかに持ち込めば異常な人間になるように、物質界で通用するものを高次の世界に持ち込むと、それは高次の
世界の意識にとって異常なものになるからです。神学は事物を受け入れる実学にもならず、証明できる学問にもなりませんでし
た。
神学は宗教を基礎づけるのではなく、宗教を破壊するものになったのです。(P135-P136)
今日の社会問題の特徴
今日「社会問題」という言葉を聞く者には、生活状態と経験と、人生に対するまじめさによって、さまざまな感情が刺激されます。
逆説的な言い方に聞こえるかもしれませんが、社会問題という今日もっとも深く関わるべき問題に対しては、そのようなさまざま
な反応が見られるのです。社会問題という言葉の含むものに直接触れた人々は、社会問題に深く関わっています。
しかし、社会問題の原因となるものに直接触れないようにしている人々は、「現代においては、社会問題に取り組むことが、思
考する人間の義務である」ということを、まだ十分に納得していません。日々生きていながら、日々の要求に目を閉じる人々は、
その無知をとおして自分あるいは子孫が苦い経験をするのを体験することになるでしょう。
「私たちの社会的共同生活のなかで、人々が陥っている状況からの出口を見出さなくてはならない」という意味で社会問題につ
いて語られるとき、つぎのような言葉をしばしば聞きます。
「金持ちと貧乏人は、いつの時代にもいる。人類が存在し、努力しているかぎり、社会問題はいつも存在する。だから、今日も財
に恵まれない人々がおり、運命によって与えられなかったものを闘争によって獲得しようとするのは驚くべきことではない。金持
ちと貧乏人、虐げられた者と富に恵まれた者は、いつの時代にもいるのだ」
このような言葉によって、社会問題の特徴を覆い隠し、不明瞭なものにしようとしているのです。古代における奴隷の反乱、中世
における暴動など、虐げられた人々が自分たちの権利を手に入れようと試みたことを示唆して、みずからを慰めようとしているの
です。
現在、社会問題と名付けられるものが人間生活において本当に新しいものであり、いままでの歴史における同様の運動とはま
ったく異なったものであることを、各人が知るべきです。現在、社会問題の解決を探求している人は、今日のような性格を最近に
なって受け取った社会秩序のなかに生きる人間です。
現在のような抑圧は、せいぜい1780年前後からの事態なのです。それは、現代の人間文化の非常に意味深い進歩から生じ
たものです。その進歩は18世紀の終わりに、機械が発明されたときに始まったことが分かります。
人々が産業の中心地、都会に集中するようになったとき以来、賃金労働者が発生したのです。今日の社会問題は、人類文化
の強力な前進によって作り出された人間の階級と切り離すことができません。
古代の奴隷は、特別虐げられていると感じたときにしか戦いませんでした。他の社会秩序によって、自分たちの虐げられた状態
を除去できるという意識を、彼らは持ちませんでした。中世においても同様でした。
近代の労働者は、「個々のものと戦うのではなく、根本的な改革、状況の根本的変革のみが自分の状況を変えることができる」
という要求を持つようになりました。この確信は、現実に目を閉じている人々が思っているよりもずっと大きく、労働者たちのなか
に広がっていきました。ものごとを見通す人にとって、これらのことがらに突き進むまじめさを持たない人がまだいるのは、まった
く驚くべきことなのです(P138-P140)
社会主義
今日、社会問題について考えている人はたくさんいます。たくさんの人がまじめに社会問題に注目し、本当に役に立つものを理
解するためには何が必要か、と考えています。今日では多くの人が、「状況が変化し、改良されるとき、人間の生活も境遇もよく
なるだろう」と、語ります。
最も流布している包括的な社会理論である社会主義も、このような観点に立っています。社会主義は、「どのように人間がよくな
るべきか、どのように人間がふるまうべきかという、さまざまな提案がなされる。さまざまな道徳的要求が寄せられる。しかし、問
題なのは、もっぱら社会状況を改善することだ」と、強調します。
社会主義理論を振りかざす世界改良家は、「状況がよくなるためには、最初に人間がよくならなくてはならない、と言われる。し
かし、すべては人間が正しい状況に置かれることにかかっているのだ」と、語ります。
居酒屋を減らしたら、酔っぱらいが少なくなった、と彼らは語ります。そして労働者に、人間愛・博愛というのは空虚な常套句だ、
と説教します。みんなが食べていけるだけの労働条件・生活条件をもたらすことにすべてがかかっており、そうなれば道徳状況
はおのずと改善されるというのです。
社会主義は、このような見方を広めました。これは現代の唯物論の結果にほかなりません。唯物論は、精神科学のように人間
の内面を見つめることができません。社会秩序を考察して、すべての状況は人間の思考と感情によって作られたものだ、と認識
することができません。唯物論は、人間は外的な状況の産物だ、と思っています。そのように思うと、社会を繁栄に導くべき考察
は麻痺してしまいます。(P145-P146)
労働と報酬
困窮や悲惨は利己主義の結果なのだということを、みなさんは次第に確信なさるでしょう。利己主義的な人はいつも悲惨な目に
遭う、というのではありません。まったく別の場所で生じる悲惨が、その利己主義と関係しているのです。
原因と作用のように、利己主義は困窮と悲惨に関連しています。人間の生活、社会秩序のなかで、利己主義は生存競争をもた
らします。生存競争は、社会的な困窮と悲惨の出発点です。
私たちの今日の思考方法の基盤には、いま述べたことを愚かだと思う傾向があります。なぜでしょう。人間の生活の大部分は
利己主義の上に構築されているにちがいない、と確信しているからです。確かに、言葉や理論でそのように認めようとはしませ
んが、実際にはそのように思っています。
「自分の労働に対して報酬が支払われるのは当然だ。自分の仕事から、所得を個人的に得るのは当然だ」と、言います。それ
は、利己主義を経済活動のなかに置き換えたことにほかなりません。
「私たちは個人的に報酬を支払われねばならない。私が働いた分は、私に支払われなければならない」という原則を生きている
かぎり、私たちは利己主義の下にあるのです。
真実は、愚かなものに思えるかもしれませんが、そのような考えとは遥かに隔たっています。利己主義に関する真実を認める者
は、あらゆる世界法則に深く立ち入らねばなりません。
「そのように個人的に報酬が支払われる労働は、本当に生活を維持するものなのか。生活は、そのような労働によって支えられ
るのか」という問いに没頭してみる必要があります。このような問いを発するのは奇妙なことでしょう。しかし、この問いについて
考えずに、社会問題を解明することはできないのです。(P154-P155 )
意味ある労働
ある人が無人島に移った、と考えてみてください。その人は、自給自足しなければなりません。「彼は働かねばならない」と、み
なさんはおっしゃるでしょう。しかし人間は、ただ働かなくてはならないのではありません。その労働に、何かが付け加わらなくて
はなりません。もし、労働が単なる労働だったら、場合によっては、その労働はまったく無益なものでありえます。
無人島にいる人が二週間、石を投げることしかしなかった、と考えてみてください。それは骨の折れる仕事です。通常の人間の
概念から言えば、その人はその仕事にふさわしい給料を支払われるべきです。しかし、その仕事は生活とは関連しません。何
かほかのものが付け加わるときにのみ、労働は生活を推進し、価値を有します。もし、その仕事が大地を耕し、大地が産物をも
たらすものなら、生活と関わりがあります。単純な活動においても、労働は生産から切り離されています。
こうして、「労働そのものが生活に意味を持つのではなく、賢明に行われる労働が意味を持つのだ」という非常に重要な定理に
いたります。人間の生み出した叡智が、人間の役立つものを提供します。今日の社会思想は、このことを理解していません。
すばらしい抽象的な理論を考え出すことが大事なのではありません。個々人が社会的な意味で考えることを学ぶかどうかに、本
当の進歩はかかっているのです。今日の思考は、非常に社会的です。たとえば、だれかが日曜日の午後に、「絵葉書を二十枚
書こう」と言うだけなら、それは非社会的です。その二十枚の葉書が郵便局員によって配達されることを知るのが、社会的に正
しい思考です。自分の行為が生活のなかで作用するということ知るのが、社会的な思考です。
「葉書を書くことによって多くの配達人が雇われて、食べていけるということがその人に明らかだったら、彼は社会的に考えてい
る」と、だれかが言うかもしれません。それは、失業が増えたときに、仕事を作り出すために何かを建設することを考え出すのと
同じです。しかし、仕事を作ることが問題なのではなく、人間の労働力が価値あるものを作るために用いられることが大切なので
す。
これを最後の結論まで導くと、今日では理解できないものに聞こえる、精神科学の古来の言葉が語られても、そんなに奇妙に
は思われないでしょう。
「社会的な共同生活においては、労働への衝動は個人にあるのではない。労働への衝動は、全体への献身のなかにのみある
のだ」という言葉です。このことは何度も強調されますが、「個人が自分の労働によって報酬を得ようすることに、困窮と悲惨は
由来する」というふうに理解されたことはありません。
私が全体への奉仕のために労働し、私が必要とするものを全体が与えるときにのみ社会は進歩することができる、というのが本
当です。自分の労働を自分のために用いないことによって、社会は進歩するのです。
自分の仕事の収益を個人の報酬という形で得ようとしないことによって、社会の進歩が可能になります。「自分の労働からは自
分のために何も得ようとするべきでない。自分は社会共同体に対して労働する責務がある」ということを知っている人は、事業を
まったく異なった目的に導きます。自分のために何も要求せず、社会共同体から自分に贈られるものによってのみ生計を立てる
のです。
これは今日の、多くの人にとっては馬鹿げたことでしょう。しかし、これが本当なのです。今日、これとは反対に、人々は自分の
仕事に見合った収入を、ますます要求しています。そのような方向に考えが動くかぎり、人間は惨めな境遇にいたります。
その非社会的な思考は、あらゆる概念を混乱させます。世の中に広まった社会主義のなかでは、搾取する者と搾取される者に
ついて語られます。明瞭に思考すれば、だれが搾取する者で、だれが搾取される者でしょうか。わずかばかりの賃金のために、
衣服を縫う仕事をしている人を見てみましょう。安い値段でその衣服を買う人がいるわけです。金持ちだけが、その衣服を買うの
でしょうか。搾取されていると嘆いている労働者も、その安い衣服を買うのではないでしょうか。その労働者は、その衣服が可能
なかぎり安いことを望むのではないでしょうか。
指を血に染めながら一週間働く針子が、日曜日に安い服を着ることができるのは、ほかの人の労働力が搾取されているからで
す。明瞭に思考すると、裕福と貧困が問題なのではなく、人間をどのように考えるかが問題なのです。
「人間の生計がその人自身の仕事に依存しないべきだと言うなら、その理想を公務員は満たしているじゃないか。公務員は自
分の仕事に依存していない。公務員は自分が果たすものに生計を依存しておらず、公務員の生計に必要だとされる給金を支払
われているのだから」と、言われるかもしれません。
そのような反論には大きな誤りがあります。大切なのは、個々人がまったく自由にこの原則を尊重し、生活のなかで実践するこ
となのです。この原則を一般的な権力によって実施することが問題ではありません。個人の収入を、全体のために労働から独立
させるという原則が、個々人の生活のなかにまで浸透しなくてはなりません。どのように、この原則は浸透するでしょうか。
浸透できる方法が一つだけあるのですが、それは専門家には非現実的だと思われるでしょう。私利追求がもはや労働の衝動で
ないなら、勤勉に献身的に働くための理由が他になくてはなりません。何らかの特許を取り、それで私腹を肥やす人は、社会生
活に関して実際的なことを何もしていません。もっぱら人類全体への愛によって喜んで仕事をしようとする人、自分の力をとおし
て正しい行為をする人は、生活のために実際的なことをしています。
このように、労働への衝動は報酬とは別のところになくてはなりません。「賃金を労働から切り離すこと」が社会問題の解決にな
る。
人々がもはや、「生活が保障されるなら、私は怠けられる」と言わなくなる衝動を人間のなかに目覚めさせるのが、精神に関係
する世界観なのです。精神的な世界観をとおして、そのようなことを言わなくなるのです。これと反対の状態へと、唯物論は常に
導きます。
「それは、何とも可愛い試みだ。人間は利己主義的で、その利己主義を計算に入れなくてはならない、と私たちはいつも聞かさ
れてきた。ところが、いま精神的世界観が登場して、もっと別なふうになると言う」と、言われるかもしれません。
確かに、「人間の利己主義を計算に入れるのが実際家だ」と、言ってきました。確かに、その通りです。しかし、すべてを外的な
状況のせいにし、制度のせいにする人々は、まさに状況がいまのようなものであったからこそ、このような衝動が人間のなかに
入ってきたのだ、ということを認めなくてはなりません。人々は、「すべてを個人の私利追求の上に築くのはけしからんという考え
が一般的になるなら、まったく別の環境が作られる」と、言うに違いありません。唯物論は首尾一貫していないのです。
精神科学が与えようとする衝動は、いままでの人類進化において試みられたことがないものだ、ということを明らかにしておく必
要があります。それは新しい精神運動であり、世界の最奥まで進むので、心魂の最奥まで働きかける力を持っています。最奥
まで突き進んで真理を取ってくる世界観のみが、世界の本当の姿を私たちに示します。世界の真相を見るなら、本当の認識をと
おして人間が悪くなるということは、決してありません。悪いものは、ただ誤謬のみから到来するというのが本当です。
ですから、精神科学による人間の本質の認識から、オーエンが思い違いしていたものを達成できるのです。オーエンは、「風紀
をよくするということを、人々に説き明かすことが必要だ」と、言います。
精神認識は、「この原則を強調するだけでなく、心魂を高貴にする手段を手に入れなくてはならない」と、言います。精神のなか
に入っていく世界観によって心魂が高められ、強められると、人間の思考の鏡像である外的な状態が、そのあとを追っていくでし
ょう。状況によって人間が規定されるのではありません。社会的な状況は、人間によって作られるのです。
私たちは外的な状況の下で苦しむとき、人々が私たちに対して行うことに苦しんでいるのです。工業の発展によって悲惨がもた
らされたのは、恵み豊かな発展をもたらす精神の力を、人々の益になるように用いることが必要だと思わなかった結果だ、と真
理を探求する人は認めるにちがいありません。
人間の共同生活の法則を研究してみてください。人間が共同生活するとき、身体的に共同しているだけでなく、心魂も共に生き
ます。ですから、精神科学のみが社会的な世界観の土台になりうるのです。
精神の深化が私たちに提供するものによって、私たち一人一人が社会の前進ために協同することが可能になります。その前進
は抽象的な対策によって達成されるものではなく、個々の心魂が行うことの総体なのです。精神科学のような世界観は、もっぱ
ら個々の心魂に働きかけ、心魂はみずからを越えて高まります。
私たちの社会の悲惨の原因が個人の利己心にあるなら、自我に個人的な私利私欲を越えさせる世界観のみが助けになりま
す。糧は私たちの労働のみからもたらされるのではなく、精神科学的な深化からやってくると言うと、奇妙に思えます。しかし、
精神科学は人間に本当の糧と豊かさを与えるのです。
ゲーテがあらゆる障害と不幸からの真の解放について語ったことは、時代が変わっても正当なものでありつづけます。ゲーテは
「秘密」という詩のなかで、つぎのように述べています。
自己を克服する者は、
すべての存在を束縛する力から解き放たれる。
ゲーテが個々の人間について述べたこの言葉は、社会的存在である人間にも通用します。自己を克服する人々は、すべての存
在を束縛する力から世界を解放するのです。
(P154-P163 )
社会有機体の三分節
人間の最も深い心情のなかまで支配する悲惨を見通すには、研究によってではなく実生活をとおして、生活の個々の領域に不
調和を生み出したもののなかに沈潜することが必要です。
何らかの原則からでも、理論的な思案からでもなく、生活経験から、私は『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』を
書きました。社会問題のユートピア的な解決を試みたのではありません。今日の人間の思考が、不随意にユートピアの側に傾
いていることを、私は思い知らされることになりました。生活の多様性から明らかになったことを、私は個々の具体的な例で論じ
たかったのですが、その本では一般的な文章に要約しなくてはなりませんでした。そこで述べたことは「社会有機体の三分節」
(精神生活・政治・経済活動の三つへの区分)という言葉に要約されます。
その本には、いくつかの方針を例示しました。資本主義はどのように進展すべきか、労働問題をどのように調整するかなどにつ
いて、いくつかの例をあげました。
私が述べたのは、生産過程において集産主義として生じたものを考察した結果です。集産主義に突進する必然性がどのように
生産者の側から提示されるか、そして別面では生産がいかに人間個人の能力に依存しているかを観察した結果です。
非常な集中力をもって現代の生産を考察すると、あらゆる生産の基礎とならねばならない根本衝動が、集産主義をとおして個人
の能力を吸収していることが、心眼に明らかになります。集産主義は経済の力から、ますます発展していきます。ある面では、
経済活動が有するこのような傾向が現れ、別の面では、経済活動のなかで個々人の個性を生かしたいという要求が現れまし
た。
社会有機体について、「個人の能力の育成」という経済発展の根本要求が、技術の進歩によって複雑になった生産過程のなか
でいかに成り立ちうるか、と考えることが人間の義務です。これがある面で「本当の経済の発展」であり、経済活動が繁栄する
ために必要なことです。
しかし別の面では、今日の社会問題は生産の関心から現れたものではありません。生産の領域において集産主義が探求され
るのは、経済活動の技術的可能性、技術的必然性に拠ってのことです。通常、社会問題と言われるものは、もっぱら個人に基
づく消費の関心から出現します。
消費の関心から、国有化の声が世界に発せられるという、奇妙な事実があります。見かけ上はいくらか異なった様相を呈してい
ても、議論されていることと実生活に注目すれば、その事実が分かります。
私は1919年4月から始めた講演と討論をとおして、実際の経済活動において生産者・企業家として活動する人々が、消費者の
立場からなされる社会問題の議論にいかに反感を抱いているかを知りました。
社会主義への声が発せられるところでは、消費への関心のみが眼中にあります。社会主義の理想のなかには、個人主義が意
志衝動として働いています。根本的に、社会主義的な人は、まったく個人的な情動から社会主義を目指します。社会主義への
努力は、個人的な情動の上に漂う理論でしかありません。
経済活動のなかで何百年も発展してきたものを真剣に考察すると、経済学において「分業」という名で総括されるものの意味が
明らかになります。
分業について、非常に才気煥発なことが語られてきたのは確かです。しかし、それらの言明が実際の経済活動にとって、徹底
的に考え抜かれたものだとは思えません。分業の原則からは、「完全な分業がなされる社会有機体のなかでは、だれも自分の
ために何かを生産することはできない」という結論が出てくるに違いありません。
小さな農場には、今日なお自給自足の最後の名残りが見られます。そこでは、生産者が自分と家族のために必要なものを取っ
ておきます。自分に必要なものを自分で供給できると、どういうことになるでしょうか。そうすれば、分業の上に打ち立てられた社
会有機体のなかで、まったく不正な方法で生産していることになります。
今日、自分で上着を縫ったり、自分の土地でできた作物で自給自足すると、費用がかかりすぎます。自分で自分のために生産
するよりも、分業によるほうが製品が安くできるからです。このような事実を考えると、今日では本来だれも自分の労働が製品の
なかに流れ込むように生産することはできない、という結論が出てきます。
例えば、カール・マルクスが製品を労働の結晶と考えているという、奇妙なことがあります。そのようなことは、今日ではきわめて
わずかなのです。今日、製品の価格が労働によって決められることは、めったにありません(経済活動においては価格のみが考
慮されます)。分業を土台とする社会有機体のなかでどれくらい有用か、すなわち消費への関心によって価格は決定されます。
これらすべてが、経済領域に大きな問いを発します。そして、この問いから、今日私たちが社会有機体を自然に沿って三分節す
る必要があることが明らかになります。
三つの部分の一つとして、本質的に人間の能力に基づく精神生活を、まず認識しなければなりません。社会有機体の三分節に
ついて語るとき、私は多かれ少なかれ抽象的な精神生活のみを精神領域に入れているのではありません。人間の精神的・心
魂的能力に基づくものすべてを、精神領域に属するものと考えているのです。このことをはっきりと強調しておかないと、三分節
された社会有機体における精神領域の境界を誤解されるかもしれません。
手仕事だけを行っている人も、その手仕事には技能が必要です。この点で、その人は純粋な経済活動には属さない、精神領域
に属すさまざまなものを必要とします。(P176-P177)
商品
社会有機体のもう一つの領域は経済活動です。純粋な経済活動においては、生産、消費、および生産と消費のあいだの流通
のみに関わります。
「純粋な経済活動においては、生産したものの流通が問題なのである。生産されたものは、流通することによって商品になる」と
いうことです。社会有機体のなかで用いられることによって、産物は一定の価値を獲得し、それが価格に作用します。このような
産物が商品なのです。
ほかのことも明らかになります。商品は経済価値のみではなく、社会有機体全体との関連において、本当に客観的な価値を有
することができます。消費のいとなみにおいて生産が意味するものをとおして、商品は客観的な意味を有する一定の価値を得ま
す。「客観的な意味」という言葉で私が何を言おうとしているのか、語らねばなりません。
「客観的な意味」というのは、商品の価格が統計や何かで決められる、ということではありません。統計で決めるには、商品が価
格を得る状況は複雑・多様すぎます。しかし、それを度外視すると、どの商品も一定の価格を有しています。
ある商品が市場で一定の価格を有するとき、その価格は本当に客観的な価値にとって高すぎるか低すぎるか、あるいは合致し
ているかです。私たちが目にする価格は、いろんな状況によって混ぜものをされることがあるので、ほとんど妥当ではありませ
ん。生産と消費の個々の条件すべてを示せるなら、商品の客観的な価格を示すことができるでしょう。商品はまったく特別の方
法で経済活動なかに存在することが、そこから明らかになります。
私が客観的な経済的価値と呼ぶものは、商品にのみ用いられます。今日、商品と似たかたちで私たちの経済活動のなかに存
在しているものには、客観的な経済的価値は用いられません。すなわち、土地と資本に関しては用いられないのです。
誤解しないでほしいのですが、私は資本主義の特徴を話そうと思っているのではありません。今日の経済活動においては、資
本なしには何も行えないということは、詳しく述べるまでもない自明のことです。資本主義を罵るのは、経済学的な素人道楽だと
いうことも明らかです。私がいま資本と土地について語ることは、今日しばしば語られるのとは別のことがらです。
商品の価格は、なんとなく決めることのできないものですが、客観的な基準価格よりも上か下にあるということは示せます。標準
価格は、すぐには分からないとしても、唯一有益なものです。同じことを、今日商品のように扱われている土地について言うこと
はできません。(P178-P179)
土地
土地の価格・価値は、人間の思弁という社会衝動の下にあります。経済学的な意味で土地の価格を査定する必然性はまったく
ありません。商品は良いものか悪いものかに関わりなく、需要に応じて客観的な価格がおのずと定まります。商品は、役に立て
ば良いものですし、役に立たなければ悪いものです。
それと同じことは、土地についても資本についても言えません。土地と資本が社会的・経済的な関連全体のなかで担うものは、
まったく人間の能力に依っています。それらは、作り上げられたものではありません。
もし私がどこかの土地を管理しなければならないとしたら、私の能力に従って管理できるだけです。そのことをとおして、土地の
価格は変動します。私が管理する資本に関しても同様です。
この事実の意味を実際に研究する者は、「商品と、土地および資本とのあいだには、根本的な差異が存在する」と、言うにちが
いありません。
ですから、私たちの経済活動のなかに現れた、明らかに社会有機体の病の兆候と思われるものは、本来金銭で計れないものを
金銭で取り扱うことによって経済活動のなかに生じるものと関連させて考えねばならない、ということが明らかになります。金銭
という回り道をして、まったく本質の異なったもの同士を交換するという混同がなされているのです。土地は経済活動のなかで、
商品とは異なった扱いをされねばなりません。
金銭を支払って商品を購入し、消費するのと同じように、土地が社会有機体のなかでどのように取引の対象になり、金銭で売買
されるようになったかを実際的に研究し、人類の歴史の歩みを追ってみましょう。そうすると、まったく別の根から発生した三つの
生活領域が、私たちの社会有機体のなかで無機的に共に作用しているのが分かります。
最初に、人間の能力が活動する精神領域です。その能力を人間は精神の世界から地上にもたらし、自分の素質のなかに据え
ました。能力はまったく個人的なものを示し、個人性が社会のなかで認められるようになればなるほど、力強く発展します。
どんな立場の人であっても、人間は精神領域で活動する力をたずさえて、この世に生まれてきたのです。手工業の器用さも、最
高の発明の力も、繁栄するには、どこまでも「個人」に拠らねばなりません。(P180-P181)
個々人の頭の良さはまったく役に立たない
実際の経済実践を眺めると、「商品の生産・流通・消費から成り立つ本来の経済活動の領域で、個々人の頭の良さはまったく
役に立たない」ということが、いつも明らかになります。逆説的な言いかたをしましたが、とらわれのない目で考察すると、これが
真実なのです。非常に賢くて、あますところなく証明できても、それが経済活動においては真実ではないことが明らかになるでし
ょう。どうしてでしょうか。経済活動はそもそも、個々人の考慮によって包括できるものではないからです。経済的経験・経済的認
識は、さまざまな方法で経済活動に関与している人々の合意をとおしてのみ友好な判断にいたりうるのです。
個人は、決して適切な判断ができません。どのように経済が進行すべきかを、統計学によって明らかにすることもできません。
消費者と生産者が集まって意志を疎通させることによってのみ、経済がどのように進行すべきかを明らかにできるのです。消費
者は何を必要とするかを語り、生産者は生産の可能性を語ります。経済活動の共同体内の合意から集団的な判断がなされると
きにのみ、経済活動についての友好な判断がなされるのです。
ここで、外的な経済認識と経済心理学がぶつかります。生活は一体をなしているものであり、本当に実生活について語ろうとす
るなら、人間の心魂を避けて通ることはできません。本当の経済的判断は、経済活動に携わっている人々の合意からのみ生じ
ます。個々人が部分的認識として得る認識は、他の人の認識によって洗練されることによって妥当な判断になります。議論する
ことによってのみ、経済活動における友好な判断が生まれます。(P183)
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