悪の秘儀




現代の教育は人間をあまりにも早く老いさせている

今日行われているような授業が続いていくならば、人間はあまりにも早い時期に老け込んで、年老いてしまうことでしょう。なぜ
ならば、このような授業はアーリマン的なものだからです。アーリマン的な授業は人間を老いさせます。現在、学校で子どもたち
を教育している方法は、すべてアーリマン的なものです。まさにこの20世紀では、このような教育が行われています。そのため
に、人類のすべての進化はアーリマン的なものの方向に向かっています。しかし、20世紀以前の時代では事情は異なっていま
した。(P28)


古代、人は「決して老いることができない」という危険に曝されていた

いまから8000年前の時代から、西暦紀元の始まる頃までの時間を遡ってみましょう。当時は、現代とは事情が異なっていまし
た。その頃の人間は「決して老いることができない」という危険に曝されていたのです。このような太古の時代には、現在のよう
な意味における学校というものは存在しませんでした。学校は、既にかなりの年齢に達してから正式の学者になろうとする人々
のためだけに存在しました。学校は、このような人々のためのものだったのです。古代には、子どものための学校は存在しませ
んでした。子どもたちはまさに、人生そのものの中で勉強をしたのです。子どもたちは実際に目で見るものの中から、さまざまな
ことを学び取りました。当時は、学校は存在しませんでしたし、未知の事柄を子どもたちに教え込もうとして、大人が骨を折ること
もありませんでした。この時代には、人間が完全にルシファー的なものの中に入り込んで、ルシファー的な熱狂に没入してしまう
危険がありました。確かに古代にはまた、私が既に皆さんにお話したような数多くの知恵も存在していました。しかし当然のこと
ながら、このようなルシファー的な傾向は制御されなければなりませんでした。もしこのままにしておいたら、太古の人々は一日
中幽霊の物語ばかりしようとしたことでしょう。当時の人々は、とりわけ幽霊の物語を好んだのです。

ですから、私たちは次のように言うことができます。「太古の昔、いまから8000年前の時代から西暦紀元の始まる頃まではルシ
ファー的な時代だった。そしてそれから、アーリマン的な時代がやって来た」、と。(P28-P29)


近代以前、福音書は禁書だった

キリスト教の最も初期の時代から12、13世紀、さらには14世紀に到るまで、キリスト教徒が聖書を読むことは禁じられていまし
た。新約聖書を読むことは禁じられていたのです。新約聖書を読むことが許されていたのは聖職者だけでした。一般の信者が聖
書を読むことは許されませんでした。なぜでしょうか。その理由は、聖職者たちが、「聖書は正しく読まなくてはならない」というこ
とを知っていたからにほかなりません。聖書が成立した時代には、人々は今日の人間のような方法で思考することはありません
でした。この時代の人々は具象的に思考したのです。だからこそ、聖書は正しく読まなくてはならないのです。(P43)

しかしいまや、人々が、「福音書を読むために心の準備をする必要はない」と言うようになる時代がやって来ました。一般的に見
て、現代の私たちは何かに対して心の準備をするということは一切ありません。私たちは学校でさまざまなものに対して準備を
させられます。私たちはしつけをされるわけです。そして私たちが、このようなしつけをされなくなる頃には----つまり14歳、15歳
を越える頃には----もはや心の準備をすべきものなど何も存在しません。そのときには、私たちはすべてのものを理解できるよ
うになっていなくてはならないのです。これが現代の一般的な考え方です。(P45)


サタンの別名

アーリマンの霊やメフィストフェレスの霊とは、これらの名称を正確に捉えるならば、中世の人々がサタンの霊と呼んだものと本
来同一のものです。(P58)
(関連ページ) 民族魂の使命-サタン=アーリマン


世俗の学問がもたらすもの

現代を生きる私たちは、このような事柄を洞察しなければなりません。単なる世俗の学問だけでは、人間は幻影にとりつかれる
ことになるでしょう。基本的な部分において、世俗の学問は最後にはもっと愚かなことを行うようになるでしょう。現代では、既に
十分すぎるほど愚かなことが行われています。なぜなら(第一次)世界大戦という災厄は大いなる愚行に違いないからです。現
代の世俗的な学問に浸透された多くの人々が、世界大戦に関与していたのです。
(P133)


アーリマンの活動

紀元前三千年紀の初めにルシファーが受肉したのと同じように、またゴルゴタの秘儀の時代にキリストが受肉したのと同じよう
に、私たちが地上に存在したしばらくのちの西暦三千年紀に、アーリマン存在は西洋に受肉することになるでしょう。人間の進
化の過程においては、一方の極にルシファーの受肉があり、中央にキリストの受肉があり、もう一方の極にアーリマンの受肉が
位置しています。(P107)

アーリマンが利用する手段の一つは、「『特に近代以降支配的なものになった、ある種の思考方法、表象方法が人間にとってど
のような意味を持つか』という点を人々に見破られないようにすること」にほかなりません。(P110)

アーリマンは、みずからの受肉を最も実り多いものとするために、次のような点に非常に大きな関心を寄せています。すなわち
人間が、このような幻影としての学問を完全なものにし----基本的には現代の学問はすべて幻影なのですが----、しかもそれ
が幻影にすぎないことに気がつかないならば、アーリマンにとって都合がいいわけです。アーリマンは、人間に数学を教えること
にこの上もなく大きな関心を抱いていますが、この際、「数学的かつ力学的見解は宇宙に関する幻影にすぎない」ということだけ
は人間に知らせないでおこうとしています。(P114-P115)

現在あらゆる集団を捉えている学問上の迷信が----人間はこのような迷信に基づいて社会学までも形成しようとしています---
-三千年紀に到るまで支配するならば、そして、そのときアーリマンが人間として西洋文明の中に現れ、地上に学問的な迷信が
蔓延しているのを見出すならば、アーリマンは極めて大きな勝利をおさめることができるでしょう。

そうは言っても、皆さんは、私がいまお話したことから誤った結論を導き出してはなりません。もし皆さんが現代の学問を避けよう
とするならば、それは誤った結論です。それは私がお話しした事柄から導き出しうる、最も誤った結論です。私たちは現代の学
問について知らなくてはなりません。私たちはこのような現代の学問の側からやってくるものは、すべて知っていなくてはなりま
せん。しかしこの場合は、私たちは完全な意識を有している必要があります。そうすれば、現代の学問の幻影としての局面が--
--このような幻影としての局面は、人類の教育にとって不可欠のものです----私たちにとって明らかなものになるのです。
((P116-P115)

「人間を学問的な迷信に縛りつけておくこと」これこそが、アーリマンがみずからの受肉をできる限り有効なものにするために用
いる手段なのです。(P118)

アーリマンが用いる第二の手段は、「あらゆるものを煽動することによって、現代の人間を互いに反目し合う小さなグループへと
分裂させること」です。

このようなアーリマンの力は、人間の集団の間に不調和が生じるところでは、どこでも作用します。こうした不調和の大部分は何
に起因するのでしょうか。ある典型的な例から始めてみましょう。現代のプロレタリアートはカール・マルクスを信奉してきました。
「カール・マルクスの学説は、現代のプロレタリアートの間にどのように広まっていったか」ということを正確に認識してください。
そして際限のないものへ、計り知れないものへと過激なまでに向かおうとするマルクス主義の文献に目を向けてください。そこで
は、現在通常に行なわれている学問的考察の方法が極めて明確に使用され、あらゆるものが厳密に証明されています。すべて
が極めて厳密に証明されているために、既にかなりの数の人間が----当初は、誰も予想しなかったことですが----マルクス主
義の手に落ちてしまったのです。いったい、マルクス主義の運命とはどのようなものだったのでしょうか。最初、マルクス主義は
プロレタリアートの間に広まりました。マルクス主義は、大学で教えられている学問からは厳しく退けられました。しかし現在で
は、既に大学に所属する学者のうち幾人かがマルクス主義の理論を受け入れています。このような学者たちはマルクス主義を
認め、もはやマルクス主義から抜け出すことができなくなっています。なぜならマルクス主義の文献を読むうちに、マルクス主義
が導き出す結論は相互にみごとに符合しており、現代の学問的な考え方や表象方法を用いてマルクス主義を実に正確に証明
できることが、しだいに明らかになってきたからです。もしカール・マルクスが正反対のことを証明したならば、こんどはプロレタリ
アートではなく、市民層の側がマルクスを受け入れたことでしょう。というのもマルクス主義の立場から、法や道徳などのイデオロ
ギー的性格や、剰余価値の理論や、唯物論的な歴史研究について証明できるのとまったく同じように、このような事柄すべてに
関して、まったく正反対のことを厳密に証明することもできるからです。市民としてのブルジョワ的マルクスが正反対のことを、同
じくらい厳密な方法で証明することも可能だったのです。ここにはいかさまやごまかしはいっさい入り込む隙はありません。やは
りこの場合も、マルクスの証明は完璧なものとなったはずです。(P120)


支配者のタイプの歴史的変遷

私が今日、「ルシファー的な時代」として描き出した古代まで時間を遡ってみましょう。当時は誰が支配者のタイプだったのでしょ
うか。秘儀参入者です。エジプトのファラオも、バビロニアの支配者も、アジアの支配者も、すべて秘儀参入者でした。(P123)


アーリマンと民族主義

皆さんは最近(第一次大戦後の国際連盟成立期))、世界中で「民族的な国家を、民族的な王国を打ち建てなくてはならない」と
いう声が叫ばれているのを耳にされたことと思います。「それぞれの民族の自由」について実に多くのことが語られています。し
かしながら国家が血や部族のつながりに従って建設される時代は、既に人類進化の中で過ぎ去ってしまいました。ですから今
日、知性や精神の中から発したものではない民族や部族などのつながりがアピールされるならば、人類の間に不協和音が生じ
ることになります。アーリマン的な力は、この人類の間の不協和音をとりわけ利用することができます。民族的なショービニズ
ム、あらゆる倒錯した愛国主義を材料として、アーリマンは自分が必要としているものを組み立てるのです。(P205)
(関連ページ) 天使と人間-母国語と民族主義


アーリマンと統計学

私たちの知性は事物の理解の表層に留まっており、現実に真理が存在する層にまで分け入っていくことはありません。このこと
は十分に深く、根本的に洞察しなくてはなりません。現在、人々は悟性とともに表層に留まることを好み、より深い精神の力を用
いて、さらにその先にある事物の本質に相応した存在の層に分けいっていくことを好みません。人々は外面的な人生において
少し自分の周囲を見回すだけでこのことに気づくはずなのですが、最も外面的な人生がしばしば、「いかに人間はいま好んでい
るものによって欺かれるか」ということ示すのです。

現在、人々は学問において数字を好みます。人々は社会生活においてすら数字を好むのです。社会に関する学問に目を向けて
みてください。これらの学問はほとんど純粋に統計から成り立っています。そして重要な事柄は統計から、つまり数字から推論
されます。数字とともにあらゆることが証明され、信用を獲得します。数字はあることを証明するための手段ではなく、人々を欺く
ための手段なのです。人々が数字から質的なものへと目を向けないならば、数字を越えて質的なものを見ないならば、たいてい
数字によってだまされることになります。数字が証明の手段として持ち出され、証明の手段として見なされるとき、アーリマンは
目的を達成することができるのです。(P207)


アスラの介入

現在私たちは、ルシファーやアーリマンとは別の存在たちが人間に忍び寄ってくる時代を迎えつつあります。このような存在たち
は、私たちがこれから迎える人類の未来において、人類の進化の中にますます介入してくることになるでしょう。ルシファーの霊
たちがレムリア時代に介入し、アーリマンの霊たちがアトランティスの時代に介入したのとまったく同じように、ある存在たちが少
しずつ、私たちの時代においても介入してくることになるでしょう。(P67)

そして、まもなく到来する時代には、意識魂と、人間の自我と呼ばれているものの中に----なぜならこの頃には、自我は意識
魂の中に埋没することになるからです----アスラと呼ばれている存在たちが忍び込んできます。アスラたちはアトランティス時
代のサタン(アーリマン)の力やレムリア時代のルシファーの霊たちよりも、はるかに集中的な力を用いて悪を発達させることでし
ょう。

ルシファーの霊たちは、自由の恵みとともに人間に悪を与えました。すべての人間はこのような悪を、地上での時間が経過する
間に、完全に脱ぎ捨てることになるでしょう。また人間は、アーリマンの霊たちがもたらした悪を、カルマの法則が進行することに
よって脱ぎ捨てることになります。しかしアスラ的な力がもたらす悪は、このような方法で贖うことはできません。人間が悪の可
能性を備えているにもかかわらず、なお高みに向かって進化することができるように、善き霊たちは人間に痛みと苦しみ、病気と
死を与えました。また善き霊たちはアーリマンの力に対抗して、人間が犯した過ちを再び取り除くために、カルマの可能性を与え
ました。

ところが人間が地球上に存在している間に、アスラの霊たちに対して対抗手段を講じることは、こういった場合ほど簡単ではな
いのです。なぜならアスラの霊たちは、かれらが捉えた人間の自我が----アスラたちは、人間の最も深い内的なもの、つまり
自我と一体になった意識魂を捉えるのです----地球の感覚性と一体になるように作用するからです。そうなると人間の自我の
一部が、少しずつもぎ取られていくことになります。そして、「アスラの霊たちがどれだけ意識魂の中にしっかりと入り込んでいる
か」という度合いに応じて、人間は地球上にみずからの存在の幾つかの部分をあとに残さなくてはならなくなるのです。一度ア
スラの力のとりこになったものは、もはや取り返すすべもなく、そのまま失われてしまうことでしょう。「すべての人間がアスラの
手中に陥る必要がある」というわけではありませんが、人間の精神のある部分がアスラの力によって切り取られることになるで
しょう。

私たちの時代においては、「いまを支配している単に感覚的なものの中で生き、あらゆる現実の霊的な存在や霊的な世界を忘
却する精神」と呼ぶものの中に、アスラの力が予兆となって現れています。つまり私たちは、「現代では、アスラの力が人間を誘
惑する方法は、ますます理論的なものになっている」と言うことができるわけです。

現在、アスラの力はしばしば、「人間の自我とは、単に物質界が生み出したものにすぎない」ということを人間に信じ込ませよう
としています。アスラの力は、ある種の理論的な唯物論へと人間を誘惑しようとしているのです。そしてアスラの力は、さらに長
い時間の経過とともに----その予兆は、現在ますます地上へと降りてきている感覚性の荒廃した情熱に現れています----、
霊的な存在や霊的な力に対して人間の目を曇らせていくことになるでしょう。すなわち、人間は霊的な世界について何も知ろうと
しないようになるのです。人間は、「人間の最高の道徳的な理念とは、動物的な衝動がより高いレベルで形成されたものにすぎ
ない」ということを、ますます教えるようになるでしょう。また人間は、「人間の思考とは、動物ですら備えているものが変化したも
のにすぎない」ということを、そして、「単に人間の姿が動物に類似しているだけではなく、人間のすべての本質は動物に派生す
る」ということを教えるようになるでしょう。それだけではありません。人間はこのような見解を実行に移し、そのように生きるよう
になるのです。

現在のところ、「人間の本質は動物から派生する」という言葉のとおりに生きている人間は、まだ一人もいません。しかし、このよ
うな世界観は確実に現れます。そしてその結果として人々は、このような世界観とともに動物のように生き、単なる動物的な衝
動や情熱の中に沈み込んでいくことになるでしょう。そして、ここではこれ以上詳しくお話しする必要のない幾つもの現象の中に
----つまり現在、特に大都市のさまざまな場所で、虚しい官能の荒廃した乱痴気騒ぎとして現れているものの中に----私たち
は、私たちがアスラと呼んでいる霊たちのグロテスクな地獄の輝きを見るのです。(P71-P73)


律動学

自然の現象の単なる多彩なものや幻影的なものを越えた瞬間、私たちは霊的なものに出会うことになります。つまり、いわゆる
粗雑な物質を探求しようとする試みはすべて、極めて無意味なのです。将来、人間が粗雑で感覚的なものを自然の根底にある
ものとして探求することをやめるならば----人類は四千年紀(西暦3000年代)までにそのような方向に進むでしょう----、そのと
き人間は、まったく別のものに到達することになるでしょう。そのとき人間は、自然のいたるところにリズムを、つまり律動的な秩
序を見出すことでしょう。このような律動的な秩序は確かに存在しているのですが、現在の物質主義的な学問は概して、このよ
うな律動的な秩序をただ面白がっているにすぎません。私たちはこのような律動的秩序を、この建物(注1)全体の配置の中で--
--すなわち七本の柱において----具象的に表現しました。このような律動的な秩序は、自然全体の中に存在しています。例え
ば植物の葉は、次から次へと律動的に成長します。また、植物の花びらは律動的に配置されています。すべては律動的に整え
られているのです。人間が病気に罹るときには、熱が律動的に現れて、再び律動的に引いていきます。生命全体が律動的な性
格を備えているのです。将来、真の自然科学はこのような自然のリズムによって浸透されるようになるでしょう。

また人間は、自然のリズムに浸透されることによって、技術の分野においても律動学を利用するようになるでしょう。調和する振
動によって----このとき人間は小さな部分でこのような振動を引き起こしてから、大きな部分へと移していくのです----つまり
簡単な調和によって途方もなく大きな作用を引き起こすことが、未来の技術の目標となるのです。(P181-P182)
(関連ページ)  職業の未来とカルマ-機械の動かし方 神殿伝説と黄金伝説-新しい形式の帝王術



ルシファー認識とアーリマン認識の混乱

現在私たちは、ミルトンやクロップシュトックが霊的な世界について行なった描写を読みます。このとき私たちは、どのようにして
これらの文学作品を読むのでしょうか。私たちはこれらの本を読むとき、ルシファー的な特性が「神的なもの」と呼ばれているもの
に転用されているのを見出すのです。クロップシュトックやミルトンのような人間は、かれらの前に「神的なもの」として現れるル
シファー的なものとアーリマン的なものの間の戦いを描こうとしています。

近代の人類が「神的なもの」として描写するものの大部分は、単なるルシファー的なものにすぎないのです。しかし人々は、アー
リマン的なものの場合と同様に、ルシファー的なものに関わるこの問題をほとんど理解していません。このことは、ゲーテの『ファ
ウスト』で、メフィストフェレスが「主」と対置される場面にも関係しています。ゲーテもまた、アーリマン的なものをルシファー的な
ものと区別することができませんでした。そのためゲーテの描いたメフィストフェレスは、ルシファーとアーリマンが混ざり合ったも
のになりました。(P212-P213)


彼はヨーロッパ人として出現する

紀元前の時代をルシファーの時代とするなら、現代はアーリマンの時代である。これから先アーリマンの影響はますます強まる
と、シュタイナーは視ている。そしていよいよ、アーリマンは地上に受肉するのである。その時は西暦二千年代の初めであり、所
はヨーロッパである。ここで言う受肉とは、西洋の古典絵画に描かれたようなカリカチュアが出現するというわけではなく、「ある
非常に知的な人間にアーリマンが憑依し、この人間を通じて地上で活動しようとする」というものである。また、このようにして地
上に受肉したアーリマンは「西欧にアーリマンの学院を創設し、多くの人間にアーリマン的な知恵を植え込もうとする」というので
ある。シュタイナーに拠れば、アーリマンの受肉を体験することは、人類にとっては避けることのできない運命なのである(本書の
「解説とあとがき」より抜粋)。(P221-P222)
(関連ページ) 色と形と音の瞑想-アメリカ人