天使と人間



母国語と民族主義 
 
正しい方法で霊的かつ魂的にアンゲロイ(天使)の領域に到達する人には、これから後再び地上で歩むことになる人生におい
て、肉体の中に入りこみながら活動するための力が、霊的で魂的なものの中に内的に植えつけられます。これに対してアンゲロ
イは、このような魂や霊に関わる体験をたずさえてこなかった人には、地上の人生への憧れを、それがより無意識的に作用する
ように植えつけなくてはなりません。 そしてこのような植えつけが行われるときに、極めて多くのことが決定されます。

つまり、このような植えつけに際して、「次の地球上での人生において、どの民族のもとに降りていくか」、また、「どの言語の、
どの母国語のもとに降りていくか」といったことが決定されるのです。そして、このとき、民族や母国語へのこのような衝動が「よ
り内面的に植えつけられるか」、あるいは「より外面的に植えつけられるか」といったことも決定されます。その結果、「人間が地
球上に降りていくときに、母国語への内的な愛によって貫かれているか」、あるいは「後に言語器官を用いて言語として表現しな
くてはならなくなるものの中へと、より自動的に移されるか」という違いが生まれるのです。

「人間が言語に関して、この二つのうちどちらの方法で決定されるか」ということが、次の地球上での人生において大きな違いを
生み出します。新たに地球上での人生を始める前に、アンゲロイの領域を二度目に通過していくとき、内的に、魂的に、そして愛
情豊かに母国語への思慕の念に満たされている人は、この母国語を内面的に受け入れます。このような人は母国語と一体化し
ます。愛が自明のものに、つまり魂的な愛になるのです。このような人はごくあたりまえのこととして母国語に、そして民族性に
なじんでいきます。

ところが別の方法で適合していく人は----このような方法を、私は先程「より自動的に」と言いました----後に誕生を通して次
の地球上での人生へと降りていき、地上に到達したとき、ただ本能的に、衝動的に言語を愛することを学ぶことになります。母
国語や民族性に対する自明の愛として内的に獲得していないものが、いわばその人の肉体存在から現れるのです。

ある場合には、私たちは静かで純粋な愛と共に国民性に、そして言語の関係に適合していきます。このような愛は、民族性や
言語と内的に結ばれている人だけが持ちうるものです。また別の場合には、私たちは言語や民族に、より自動的に適合してい
きます。その結果、私たちは衝動や本能の中から民族や言語に対する内的な愛を、いわば、強引に生じさせるのです。この二
つの間には大きな相違があります。

前者は世にいうショービニズム(熱狂的な愛国主義や民族主義)、つまり民族性の外面的な主張として現れることはありません。
前生における理想主義的で敬虔な体験の中から実際に獲得された、民族や言語への内的で霊的かつ魂的な愛はごく自然に
姿を表し、真の普遍的な人間愛と一つになることができます。四海同胞主義(コスモポリタニズム)的な、あるいは国際主義(イン
ターナショナリズム)的な感覚が、言語と民族性に向けられたこのような霊的で魂的な愛によって歪められることは決してありま
せん。

これに対して、人間がより自動的に言語に適合することによって、言語や民族性に対する加熱気味で、有機的で、動物的な愛を
本能や衝動と共に発達させる場合には、間違ったナショナリズムや、ショービニズム的な考えや、外面的な方法で民族性を自
慢しようする傾向などが生じるのです。 
(関連ページ) 秘儀参入の道-ミカエル  悪の秘儀-アーリマンと民族主義


天使は私たちのアストラル体で何を行うか

未来において人類の中で発達することになる自由な宗教性はすべて、「単なる理論ではなく、直接的な人生の実践において、
個々の人間の中に実際に神性の似姿が認められる」ということを拠りどころとするのです。そうなると、もはや宗教が強制される
こともなくなります。もはや宗教を強制する必要がなくなるのです。というのも、その時には、それぞれの人間が他の人間と出会
うということが既に宗教的な儀式、秘跡となるからです。その時には誰も、物質界に外面的な機構を持つ特別の教会によって宗
教上の生活を整える必要がなくなります。人生全体が超感覚的なものの表現となることによって宗教上の生活を整える必要が
なくなります。人生全体が超感覚的なものの表現となることによって、教会が持ちうる唯一の目標は----もし教会が自分自身を
正しく理解するならば----「教会それ自体を物質界で不要なものにすること」のみになるのです。

「宗教生活の完全な自由を人間の上に注ぎかけること」----このことが、少なくとも天使が仕事を行う際の衝動の基礎になって
います。そして、私たちは更に三番目の衝動に目を向けることになります。それは、即ち、「思考を通して霊へと到達し、思考を
通して深淵を超越し、霊的なものの中での体験へと到る可能性を人間に与える」ことにほかなりません。霊を探求するための精
神科学、魂のための宗教の自由、肉体のための友愛----これらが、人間のアストラル体で天使が行う仕事を通して、宇宙の音
楽のように鳴り響いています。(P54)


聖人の光輪はどのようにしてできるか

お互いのことを絶対に好きになれない二人の人間どうしが出会った場合のことを考えてみましょう。極端な場合ですが、こうした
ことが人生には起こりうるものです。「お互いに好感情を持っていない二人の人間が出会い、普通以上の反感が相互に向けられ
た」と仮定してみましょう。すると、二人の人間の頭部を形成している部分のエーテル体が、お互いの方へと傾くようになります。
仲のよくない人間どうしが出会うと、エーテル的な人間が絶えず頭を相手の方に傾けることになるのです。反感はこのようにして
現れてきます。また愛し合っている二人の人間が出会うときにも、同様の事象を認めることができます。この場合には、エーテル
的な頭が後方へと退いて、後ろ向きに傾くようになります。つまり、お互いを好きになれない人間どうしの場合、エーテル体はま
るで挨拶でもするように前方へと傾き、愛しあっている人間どうしの場合には、エーテル体は後方へと傾くわけです。

この二つの場合に共通して生じることは何でしょうか。それは「頭部のエーテル体を前か後ろのどちらかに傾けることによって、
物質的な頭部が通常よりも自由になる」ということなのです。ここで述べているのは相対的な事柄です。この場合、もちろんエー
テル体が完全に抜け出るわけではありません。エーテル体が本来の場所から前後に移動するために、私たちはエーテル体の
突出した部分を見ることができるようになるのです。このとき人間の頭部を満たしているのは、普段人間が一人でいる場合よりも
希薄になったエーテル体です。そして、頭を占めるエーテル体が希薄になった結果、霊視的に眺めると、人間の頭部のアストラ
ル体がより明瞭に見えるようになるのです。そのため人間の頭部には、エーテル体の動きだけではなく、アストラル的な光の変
化が生じるようになります。

このような事柄をいくらか理解している人は、多くのものを無私に愛することができる人間の肖像を描くときに、光輪と呼ばれる
頭部のオーラを描き加えます。このことは単なる創作ではなく、事実上の真理に基づいているのです。二人の人間が出会うとき
に、愛の中に絶えず強いエゴイズムが混入するならば、この場の現象はさほど注意を引くものとはなりません。人間が自分自身
や他の人間との個人的な繋がりと関わりあうだけでは、このような頭部のオーラは生じません。しかし、人間が普遍的な人間性
と----つまり普遍的な人類愛につながるものと関わりあう瞬間に人類全体に向かいあうならば、私が述べたような事柄が生じ
るのです。つまり、そのとき、アストラル体が頭の辺りにはっきりと見えるようになるのです。人間の中の無私の愛を霊視的に見
ることができる人は、光輪を見ることになります。そして、その人は光輪の存在を----そして「光輪はどのようにしてできるか」と
いうことを現実として認めることを余儀なくされるのです。(P171-P173)