内界が外界になる
霊界を認識するためには、まったく新しい種類の判断を身につけねばならない。なぜなら、内部に属する事柄が外界として現れ
てくるという点を除いても、その現れ方が、現実に存在する姿の逆の相として現れてくるからでる。たとえば或る数を霊界で見た としよう。そのとき人は鏡に写った場合のように、逆にして読まなければならない。たとえば285という数は本当は582を意味して いる。ひとつの球は、まるでその中心から見る時のように、現れる。したがってこの中心からの観点を正しい仕方で改めて翻訳し 直さねばならない。魂の特性もまた鏡像のような現れ方をする。外にある何かに向けられた願望は、その願望を抱く人自身のと ころへ向う形姿として現れる。人間の低い本性に基づく情欲は動物のような姿をとって、人間に襲いかかってくる。実際にはこの 情欲は、それを満足させてくれる対象を外の世界に求めている。けれども外に向けられたこの欲求が、鏡像の中では、情欲の 所有者への攻撃として表現されるのである。
修行者が、霊的直観を獲得する以前に、冷静な自己観察を通して、自分の性質をよく認識していたなら、自分の内面が外なる
鏡像となって立ち現れてきた時にも、まもともにそれと向い合う勇気と力を持つことができるであろう。静かな自己反省を通して 自分の内部に精通しようとしなかった人は、このような鏡像を己れの姿であるとは認めたがらず、それを自分と異質な外的現実 の一部分と見做すであろう。またはそのような鏡像に接して不安に陥り、その姿が見るに耐えなくなり、それを根拠のない空想 の産物であると思い込もうとするかも知れない。そのいずれの場合にも、人は未成熟なまま、或る種の霊的開発に成功してしま ったので、取り返しのつかぬ不幸な状態に陥っているのである。
霊界へ参入するためには、自分の魂の霊的洞察が修行者にとって極めて重要なのである。自分の自我こそ、人間がもっともよ
く評価することのできる霊的、魂的内容の筈である。修行者が日常の自分についての認識を深めた上で、霊界における自分の 鏡像にはじめて接したとすれば、彼はその両方を比較することができる。その霊的な姿を自分の熟知している姿と関係づけ、そ のようにして確かな地盤から出発することができる。そうでなければ、たとえどんなに多くの他の精霊たちが彼の前に出現してき たとしても、彼はそれらの本性を知る手がかりを掴むことができないだろう。その結果やがて自分の拠り所が全然存在しなくなっ てしまうであろう。それ故、自分の本性を十分に認識し、評価することを学んだ者だけが、霊界においても確かな道を歩むことが できる。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。(P158-P160) (関連ページ) 神智学の門前にて-三つの世界 精神 科学から見た死後の生-アストラル界の特徴
境閾の守護霊
「境閾の守護霊」との出会いは霊界へ参入する際の重要な体験である。境閾の守護霊は単一の存在ではなく、本質上「境閾の
小守護霊」と「境閾の大守護霊」に分けられる。前章に述べたように、霊妙な身体部分(エーテル体とアストラル体)の内部で、 意志、思考、感情の間の結合帯が解けはじめたとき、人間は前者の守護霊と出会い、この結合帯の解消が身体の肉体的部分 (特に頭脳)にまで及ぶとき、「境閾の大守護霊」と向き合う。
「境閾の小守護霊」は独立した存在であるが、相当する発展段階に至る以前の修行者にとってその存在はどこにも見出せな
い。ここで、この守護霊のもっとも本質的な特質を若干述べておこう。
修行者と境閾の守護霊との出会いは、はじめ物語形式で述べるべきかもしれない。この出会いによってはじめて、思考と感情と
意志の中に植え込まれていた結びつきが解けてしまったことを修行者は意識するようになる。
思わず怖気立つような、妖怪じみた存在が修行者の前に立っている。これに向き合う修行者はまったく透徹した意識を持ってお
り、これまでの修行で十分身につけてきた自分の認識力の確かさについてはまったく自信を持っている。
「守護霊」は自分の存在の意味をほぼ次のような言葉で語る。
「これまではおまえの眼にふれることのなかった霊的な力がおまえを導いてきた。それらの力はこれまでのおまえの人生の中で
おまえの善行には良い恵みが、おまえの悪行には悪い報いが来るように働きかけてきた。それらの影響を通して、人生経験と 思索をもとに、おまえは自分の性格を作り上げてきた。おまえの運命はこれらの力の働きの結果なのだ。それらはおまえの輪 廻転生の一時期に割り当てられた快と苦の量を、前世におけるおまえの態度に従って決定した。それらの力は一切を包含する カルマの法則の形式をとって、おまえに対する支配力を行使してきた。ところが今これらの力がその支配権の一部を手放そうと している。そしておまえに対して為してきた仕事の一端はおまえが代わりに果たさなければならない。
----これまで何度も厳しい運命の打撃がおまえを襲った。おまえはその理由を知らなかったであろうが、それはこれまで繰り返
されてきたおまえの人生の中の或る時期に、おまえが為した有害な行為の結果だったのだ。おまえは幸せを掴み、喜びを見出 し、それを受け取ってきた。これらも以前の諸行為の結果だった。おまえの性格は美しい面と醜い汚点とを併せもっている。おま えはこの両方をこれまでの思索と体験を通して、自分で作り出してきた。おまえはこれまでこのことに気づかず、ただその結果だ けを問題にしてきた。しかしカルマの力はおまえのこれまでの行い、これまでおまえの心の奥底に秘めてきた思いや感情のす べてを見てきた。そしてそれによって、おまえを今ある通りの、今生きている通りのおまえにした。
しかし今、おまえの過去の一切の良き面と悪しき面とがおまえ自身に明示されねばならない。それらのすべては、これまでおま
え自身の存在の中に織り込まれてきた。それらはおまえ自身に内在していたが、おまえがおまえの頭脳の内部を見ることがで きないように、それらを見ることができなかった。しかし今、それらはおまえの内部から取り出され、おまえの人格の外へ出る。 そしておまえの眼が、外界の石や木を見るように、見ることのできる独立した形姿となる。そして----この私こそがその形姿な のだ。
私のこの形姿はおまえの高貴な行いと悪しき行いを素材として作られている。私のこの妖怪じみた姿はおまえ自身の生活の会
計帳簿を映し出している。これまでおまえは私の姿を見ることもなく、私をおまえ自身の中に担ってきた。しかしそうしてきたこと はおまえにとって幸いだった。なぜならおまえの運命がおまえの眼から隠されていたからこそ、これまでも私の形姿の醜い汚点 を消そうとして、運命の叡知はおまえの内部でひそかに仕事を続けてこられたのだから。今、私がおまえの外へ出てきたことに よって、この隠された叡知もまたおまえから離れる。それはもはやおまえのことなど構おうとはしないだろう。そして仕事をおまえ 自身の手に委ねるだろう。しかしこれからも私が堕落することは許されない。私はますます完全な、偉大な存在にならねばなら ない。もし私が堕落するようなことにでもなれば、おまえも私と一緒に暗い奈落に引きずり込まれるだろう。
----そうされたくないのなら、おまえ自身の叡知を研き、おまえから去って行ったあの隠された叡知の課題を引き継がねばなら
ない。----おまえが一旦私の守護するこの境閾を通過したなら、もはや私がおまえの眼の前から消え去るということはない。も しその後にもなお、不正な行いをおまえがするようなことになると、直ちにおまえのその罪は私の姿を醜い悪鬼に変身させるだ ろう。おまえがこれまで己れの犯してきたすべての不正行為に決着をつけ、もはや悪行を重ねることがまったく不可能な程に、 自己を浄化させたなら、その時はじめて私は光輝く壮麗な形姿に変じるだろう。そしてそれからのおまえの活動の光栄のため に、ふたたび私をおまえと合一させるだろう。
しかし私のこの境閾はおまえ自身の中にまだ残っている恐怖感と、思考や行為のすべてに責任を背負おうとすることへの恐れ
とをすべておまえが捧げることによって、築かれている。おまえが運命を自分で導くことに対して感じる何らかの恐怖をすべて手 放そうとしない限り、この境閾が必要とするものすべては、まだ全部そろわない。たった一つの敷石が欠けてもいても、おまえは この境閾に呪縛され、立ち止まるか、躓くかしてしまうだろう。おまえが完全に恐怖から自由となり、どんな責任も引き受けられ ると感じるようになるまで、この境閾を通り抜けようとしてはならない。
これまで私は、死がおまえをこの世から引き離した時にしか、おまえの人格の外へ出たことがなかった。しかしその時にも、私
の姿はおまえの眼から隠されていた。おまえを導く運命の力だけが私を認め、私の示す容姿から判断して、死と新生の間の休 息期間に、おまえのためにしかるべき能力を育成してしてきた。この能力は、新しい地上生活を通して、私の姿をより美しいもの にしようとするおまえの未来の光栄のために、新しい生誕に際しておまえに与えられる能力である。運命の力が繰り返しておま えを地上に受肉させるのは、私自身がまだ不完全な姿を示しているからに他ならない。おまえが死んだ時、私はそこにいた。そ してその私の進歩向上のために、カルマの導き手は、おまえがふたたびこの世に生を受けるように定めたのである。もしおまえ が転生を通して、無意識的にでも、私を完全な存在にすることができたとしたら、そのときおまえはもはや死の力の手に落ちず に、私との完全な合一の中で、不死なる存在となっていたであろう。
私はおまえの死の瞬間にも、これまでは眼に見えぬ姿でおまえの傍らに立ってきたが、今日は眼に見える姿でおまえの前に立
っている。私が守護するこの境閾は、これまでのおまえが死後入っていった諸領域と感覚的世界との境にある。これからおまえ はこの諸領域の中へまったき意識を持って歩みいる。これからは、地上で肉体を保持し続けながら、同時に死の国で、否永生 の国で、生きることになる。私は事実、死の天使でもある。しかし同時に不滅の霊的生活の提供者でもある。生身のままで、お まえは私を通して死を体験し、それによって不滅な存在への再生をも体験する。
今おまえが足を踏み入れるこの領域は、超感覚的存在者達をおまえに引き合わすだろう。この領域でおまえは祝福をうけるだ
ろう。しかしこの世界での最初の出会いは、おまえ自身の運命の所産であるこの私自身との出会いでなければならなかった。こ れまで私は、おまえ自身の生活を生きてきた。しかし今私は、おまえを通して、私自身の存在に目覚めた。そしておまえの前 で、おまえの未来の行為の眼に見える規範となり、おそらくはまたおまえのたえざる叱責者となる。おまえは私を創造すること ができた。しかしそうすることによって、おまえは同時に私をたえず改良し続ける義務をも背負ったのである。」
以上に物語形式をとって暗示したことは、単なる象徴的な表現と受け取ってはならない。以上は神秘修行者のこの上もなく切実
な体験の再現である。
以上に述べた守護霊の要求に応じようとする力がまだ自分の中に感じられない人に対して、守護霊は、それ以上先へ進まない
ように、警告するであろう。たとえどれ程恐ろしい姿に見えようとも、この守護霊の姿は修行者自身の過去の生活の結果に過ぎ ない。その姿は過去の生活が作り上げた修行者の性格である。生活の結果が彼の外で独立した生存をいとなめるまでに覚醒 されたのである。そしてこの覚醒は、意志と思考と感情が相互に分離しなければ惹き起こされない。----神秘道にとって、この 体験は極めて重要な意味をもっている。この体験を通してはじめて、自分こそが或る霊的存在にその根拠を与えたのだ、と感じ ることができるからである。----修行者は今、どんな恐怖にも負けずに、この恐ろしい姿を直視できるように、そして出会いの瞬 間に「守護霊」をもっと美しい存在にしようという要求を明瞭な意識と共に持ちうる力が十分感じられるように、心の準備を整えな ければならない。
境閾の守護霊との出会いを幸いにも通過できた修行者が死の瞬間を迎えたとき、その死はこれまでの前世で体験してきた死と
はまったく異なる事実として受けとめられる。死がまったく意識的に体験され、まるで使い古しの、または使いものにならなくなっ た衣服を脱ぎ捨てるように、彼は自分の肉体を脱ぎ捨てる。死が修行者にとって、特別に大きな事件であるのは、彼と共に生き てきた人たちとの別離としてであり、そしてまだ物質世界だけを現実世界と考えている人たちのことを考えてのことである。その ような人たちにとって、修行者は「死んでしまった」。しかし修行者自身にとっては、周囲に特別の変化は見られない。彼が生前 体験してきた超感覚的世界はすべて、生前は生前に応じた仕方で自分の前に現存していたし、死後も死後に応じた仕方で自 分の前に現存し続けている。
さて、この「境閾の守護霊」は別な事柄とも関連している。この世の人間は家族、民族、人種に属し、その働きはどのような共同
体に属しているかによって左右される。彼自身の性格もこのことと関連している。そして個々人間の意識活動だけが、家族、血 族、民族、人種との関係で顧慮すべき事柄のすべてではない。家族の性格、民族の性格等々が存在しているように、家族の運 命、民族の運命等々もまた存在している。自分の感覚的知覚の中に留まる人間にとって、このような事柄は一般的な概念でし かないであろう。唯物論者は、家族や民族の性格、種族や人種の運命が現実の人間の性格や運命と同じ現実的存在形式を持 っているという神秘学者の主張に対して、冷笑を投げかけるであろう。
しかし神秘学者はちょうど頭や手足が人間の一部であるように、個々の人間自身が同様の意味でその手足であるところの高次
の諸世界(魂界、霊界)を知っている。その意味で家族、民族、人種のいとなみの中には、個々の人間を離れてもまったく現実に 存在する家族の魂、民族の魂、人種の霊が働いているのである。個々の人間とは、ある意味では、これら家族の魂、人種の霊 等々の単なる執行機関であるに過ぎないといえる。たとえば或る民族の魂がその民族に属する個々の人間を用いて、特定の 仕事を成就させるということはまったく真実である。民族の魂は自己の意図を物質的な感覚世界で実現するために、個々の人 間の肉体を道具として使用する。それは、次元は違うが、あたかも建築家が建物の細部を仕上げるために、職人を使うのと共通 している。
----どの人間も、言葉のもっとも真なる意味で、家族の、民族の、もしくは人類の魂から自分の演じるべき役割を与えられてい
る。けれども感覚的人間は自分の仕事のこのような高次の計画については決して知らされていない。彼は無意識的に民族や人 種の魂の意図に従って働いている。修行者は、境閾の守護霊と出会った時から、彼自身の個人的な立場を意識するのみなら ず、民族や種族によって与えられた使命に対しても意識的でなければならない。
彼の視野が拡がるににつれて、彼の果たすべき義務範囲もまた拡がる。このことの現実の過程は修行者が自分のアストラル体
に新しいアストラル体をつけ加える過程である。彼は着物をもう一枚身にまとう。これまでの彼は、彼個人だけを包む魂の衣服を 着けて、世界を生きてきた。そして彼が自分の属する共同体のために、民族や人種のために、為すべき事柄については、彼個 人を道具として用いる高級霊たちが考慮してきた。
----さて「境閾の守護霊」は、今後高級霊たちが一切配慮の手を引くであろうと彼に打ち明ける。彼は共同体の温床から出て
いかなければならない。今もし民族霊や種族霊の力を身につけておかなければ、彼は孤立した存在となって、完全に自分の中 に凝り固まり、破滅の道を進むことになるであろう。多くの人は言うであろう。「ああ、やっと私は一切の民族的、人種的なしがら みから自分を自由にした。私は単なる『人間』でありたい。『人間以外の何もの』にもなりたくない」。
そのような人に対しては、次のように言わなければならない。「それでは一体誰がおまえをそのような自由な身にしてくれたの
か。おまえが今生きているような仕方で、おまえを世の中に導き入れてくれたのは、おまえの家族ではなかったのか。おまえを 現在のおまえにしてくれたのはおまえの血族、おまえの民族、おまえの人種ではなかったのか。それらがおまえを教育してくれ た。そしてもしおまえがすべての偏見から離れることができ、おまえの血族や、さらにはおまえの人種の指導者となり、恩人に なるとしたら、それは血族や民族や人種の教育のお陰である。おまえが人間以外の何ものでもないと考える時でさえも、そして おまえが実際そのような存在になったという事実さえも、おまえの共同体の指導霊たちのお陰なのだ」。
----民族の、血族の、そして人種の指導霊の指導の手からまったく離れるということが何を意味するか、今はじめてそれを認識
するようになる。今後は、これから歩もうとする人生にとって、すべてのこのような教育が如何に意味を失ってしまったかを経験す る。なぜならこれまで関係してきた一切の事柄は、意志と思考と感情の絆が断ち切られたことによって、完全に解消してしまう からである。彼は今まで受けてきた教育のすべてを振り返る。それはまるで、煉瓦がすべて崩れ落ち、今またふたたびその一 つ一つを新たに積み重ねていかねばならない崩壊した屋敷を眺めるかのようである。
さて境閾の守護霊がこの最初の警告を語り終ると、その立っていた場所から、旋風が巻き起こり、これまでの人生行路を照らし
ていた灯りを吹き消してしまう。このことも単なる比喩と考えてはならない。今や修行者の前に完全な闇が拡がる。境閾の守護 霊自身から放射される輝きが、その闇を時折中断するだけである。そしてこの暗闇の中から、この守護霊の次なる警告の声が 響いてくる。
「おまえ自身、この闇に光を当てることができるまでに輝け。それができぬ間は、私の境閾を通過しようとするな。おまえ自身の
カンテラに十分燃料が備わっていると確信できるまで、一歩も前へ進もうとするな。これまでおまえを導いてきた者たちの明りは もはやこれからは存在しないのだから」。
この言葉を聴いて、修行者は思わず振り向き、眼差しを後ろへ向ける。すると境閾の守護霊はこれまで人生の深い秘密を覆っ
ていたカーテンを取り払う。血族、民族、人種の守護霊たちがそのありのままの姿を表す。そして修行者は自分がこれまでどの ように導かれてきたのかを明らかに悟るのみならず、今後もはや、このような指導を受けることはないであろうと悟る。これが霊 界への境閾で、その守護霊によって与えられる第二の警告である。
ここに述べられた情景は心の準備ができていない者には到底見るに耐えられぬであろう。しかし、そもそもこの境閾にまで進む
ことを可能にした高次の修行が、この瞬間に、必要な力を見出せるようにしてくれる。修行の調和的な力が新しい生への参入の 過程から、一切の騒々しい煽動的な性格を取り除く。そして修行者は、この境閾での体験に際して、新たに目覚めた人生の基 調となるべき、あの浄福感の予感を持つ。新しい自由の感情が他のすべての感情を圧倒する。そしてそれとともに、新しい義務 感、新しい責任感が彼の心中に生じる。彼はそれをこれから持ち続けようと考える。(P197-P208) (関連ページ) 霊界の境域- 境域の守護霊 歴史を生きる-境域の守護霊
境域の大守護霊
この第一の「境閾の守護霊」の中には、過ぎ去った時間の世界しか現れていない。未来の萌芽は、この過ぎ去った時間の中に
折り込まれている限りのものしか含まれていない。しかし人間は未来の超感覚的世界の中に、これからも感覚世界から取り出 すことのできるものはすべて持ち込まねばならない。人間が自分のこの似姿の中にただ過去の所産だけしか織り込もうとしない なら、地上の使命をただ部分的にしか達成しないことになる。それ故しばらくすると、この「境閾の小守護霊」のところに大守護 霊が加わってくる。ここでふたたび、この第二の「境閾の守護霊」との出会いの情景を物語形式で表現してみよう。
自己を解脱させるには何をすべきなのか悟った修行者の道の行く手に、崇高な光の姿が現れる。その壮麗な姿は到底筆舌に
尽くし難い。----この出会いが生じるのは、思考、感情、意志の諸器官が肉体的にも互いに分離してしまい、それら相互の関 係の規整がもはやそれら自身ではなく肉体の諸条件からまったく独立した高次の意識によって為されるようになったときであ る。そのとき、思考、感情、意志の諸器官は、超感覚的な領域からそれらを支配する人間の強力な魂の道具になっている。--- -このようにしてすべての感覚的な束縛を脱した魂に、今第二の「境閾の守護霊」が立ち現れ、次のように語る。
「おまえは感覚世界からの束縛を脱し、超感覚的世界の市民権を獲得した。今後は超感覚的世界から働きかけることができ
る。おまえは自分自身のためには、現在所有しているおまえの肉体を、もはや必要としない。おまえがこの超感覚的世界に住 むことだけを求めるとすれば、もはや感覚世界の中に帰る必要はないであろう。
しかし私の姿を見なさい。そして今日までおまえが作り出してきたすべてのものに較べて、どれ程この私の姿が限りなく崇高に
見えるか、あらためて考えなさい。おまえが感覚世界に生き、その中で獲得してきた能力によって、おまえは現在の完成段階に まで達した。しかし今からおまえは、解脱によって得た力をこの感覚世界のために役立たせねばならない。これまでおまえは自 分自身の救済のみを計ってきた。解脱した今、感覚世界に住むすべてのおまえの仲間たちの救済のために働かねばならない。
これまでおまえは一人の人間として努力してきた。これからは全体の中に自分を組み入れる必要がある。そしておまえだけで
はなく、感覚世界に生きる他のすべての人々をも、超感覚的世界へ導こうと努めねばならない。その過程でいつかはおまえも、 私の姿と合一することができよう。しかしまだこの世に不幸な人の存在する限り、私は祝福をうけた存在になりえない。すでに解 脱した者として、おまえはすぐ今日にも超感覚的世界の人になりたいであろう。
しかしそうしたらおまえはまだ救われざる地上の存在たちのためには、ただ高いところから見下すことしか為しえない。それはお
まえの運命を彼らの運命から切り離してしまうことを意味する。しかしおまえたちはすべて、互いに結ばれ合って生きてきた。お まえたちはすべて、感覚世界の中へ降りていっては、そこから高次の世界へ向かう力を取り出してきた。もしおまえが彼らから 自分を切り離してしまうなら、彼らとの共同体の中で育成することができたその力を、おまえは自分のためだけに乱用することに なる。彼らが感覚世界の中へ降りていかなかったら、おまえもそうすることはできなかった筈である。彼らがいなければ、超感覚 的存在となりうる力をおまえは獲得できなかったであろう。おまえが彼らと共に獲得したこの力を、おまえは彼らにも分け与えね ばならない。だからおまえが身につけたすべての力をおまえの同胞たちの救済のために使い果たさぬ限りは、超感覚的世界に おける至高の諸領域へおまえを参入させる訳にはいかない。
すでにこれまでに獲得することができた力で、おまえは超感覚的世界の低次の諸領域に滞在することはできる。しかし私は『天
国の門前に立って、火の剣を手に持つケルビームとして』高次の諸領域の門前に立つ。そして感覚世界で使い果たさなかった 力をおまえがまだ残存させている限り、その中への参入をおまえに許さない。もしおまえがおまえの力を使わないなら、他の誰 かが代わりにその使命を遂行するであろう。そのようにして高次の超感覚的世界は感覚世界のすべての果実を受け取る。しか しおまえはこれまで親しんできた土地を取り上げられる。浄化された世界がおまえの頭上に展開されても、おまえだけはそこか ら閉め出されるであろう。そのようにしておまえは黒い道を行き、一方おまえが差別してきた人々は白い道を行くことになる」。 (P216-218)
(関連ページ) 神秘学概論-境域の小監視者と大監視者
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