精神科学から見た死後の生
欲界(魂界、アストラル界)通過
現在、アストラル体のなかに存在しているものは、死後、物質体を捨てるとともになくなるのではありません。衝動・願望は、す
べて存在しつづけます。
この人生で美食家だった人は、死んだあともおいしいものへの欲求がなくなりません。美食の喜びは、アストラル体に付着して
おり、欲望を満たすための道具である顎や舌がないだけなのです。その状態は、おそろしく喉が乾いているのに、乾きを癒す可
能性がまったくない人に似ています。欲望を満たすのに必要なものが欠けているので、その欲望ゆえに苦しむのです。物質体と
いう道具によってのみ満足させられる欲望を持つとはどういうことかを感じるために、この苦しみはあります。
この状態は「欲望の場所」すなわち「欲界」と呼ばれます。欲望を捨てていく場所です。この場所で過ごす期間は、誕生から死ま
での年月の三分の一の長さです。だれかが60歳で死んだら、その三分の一にあたる20年間を欲界で過ごすことになります。原
則的に、まだ物質界に結び付いている欲望のすべてがなくなるまで、欲界の期間は続きます。これが「欲界期」です。
欲界を通過していくときに、人間はその進化の妨げを取り除くための刺激を受けます。欲界期において、人間は自分の生涯を三
倍の速さで、逆向きに体験していきます。(P36-P37)
アストラル界の特徴
事物がすべて逆の姿で現れるのが、アストラル界=欲界の特徴です。これが、修行者がアストラル界に入るに際して生じる混
乱です。例えば、346という数字は643と読まねばなりません。アストラル界を見るときには、すべてを逆にしなければなりませ
ん。アストラル界に関係する事物すべてがそうなのです。私たちの情熱についてもそうです。
だれかが修行をとおして、あるいは病的な状態をとおして霊視的になったとしてみましょう。そのとき、初めに、自分が発している
衝動や情熱が目に入るのですが、それらがさまざまな形姿で、あらゆる方角から自分のほうに向かってくるように見えます。正
規の方法で、あるいは不正な方法でアストラル空間が見えるようになった人は、醜悪な姿や悪魔の姿が自分に押し寄せてくる
のを、まず見ます。アストラル界が見えるようになりながら、ものごとが逆に見えるというアストラル界の特徴を知らない人にとっ
て、これは非常に不愉快なことです。
今日では多くの人が、精神世界を見る目が開けているので、そのようなことが稀ではなくなっています。そのような光景を目にし
た人が恐れることのないように、このようなことも語らなくてはなりません。
精神科学は、人々にとって精神界への導きとなるために存在しています。これらの事実を知らずに霊視的になった人の多くが、
心魂的な不幸に見舞われます。私たちはアストラル界おいては、すべてを鏡像のように、逆の姿で見ることになります。(P37-
P38)
死者との共同としての歴史
「自分が死者とともにある」ということを知るのが、精神科学が人類の意識、未来の人類の文化に植え付けるべき重要な要素で
す。ものごとが生じるとき、「それは、感覚界で知覚される力によって引き起こされているのだ」と思っている人は、現実について
何も知らないのです。「地上で生起することのなかには、絶えず死者の力が働きかけている。死者は、いつもそこにいる」というこ
とを知らないのです。
唯物論的な時代に生きている私たちのなかには、歴史のなかに働く衝動に関して、はっきりと意識せず、誤った見解を持ってい
る人々がいます。しかし私たちは、「歴史のなかには、死者たちの力が生きている」と、思い描くことができます。私たちは将来、
死の扉を通過して死と再受肉のあいだの世界に生きる心魂の力を計算に入れて、歴史を考察するようになるでしょう。死者たち
も含めた人類全体の意識が、人類文化にまったく新しい色合いを与えるようになることでしょう。
死者への憎しみ
生者と死者との交流について、いくつか注意を促したいと思います。最初にまったく単純な現象から出発して、その現象を精神
科学的に探求したいと思います。じっくりと考えてみると、つぎのようなことが観察できます。
だれかが他人を憎んだ、あるいは、他人に反感を感じたとしてみましょう。憎まれた人、反感を持たれた人が死んだとします。そ
うすると、その人を憎んだ者、その人に反感を持っていた者は、その人をもはや以前と同じように憎むことができなくなったり、も
はや反感を持たなくなったりします。
自分が憎んでいた人が死ぬとします。その人が死んだ後も、その人への憎しみがなくならないとしたら、繊細な思いやりある心
魂は、この憎しみ、反感を恥じます。このような感情を、透視者は追っていくことができます。そして、「なぜ繊細な心魂は、死者
に対する憎しみまたは反感を、恥ずかしく思うのだろうか。そのような憎しみを持ったことが、人に知られていない場合でも、その
ような恥の感情が生じるのはなぜか」という問いが立てられます。
死の扉を通過して精神世界に赴いた人間を透視者が追っていき、地上に残った者にまなざしを向けると、死者の心魂が生者の
心魂のなかにある憎しみをはっきりと知覚・感受するのが分かります。比喩的に語れば、「死者は憎しみを見る」のです。
そのような憎しみが、死者にとってどのような意味があるのかも、私たちは追及していけます。そのような憎しみは、死者の精神
的な進化におけるよい意図を妨害するものです。地上で他人が目標を達成しようとするのを妨害するのと同じような妨害なので
す。死者は、その憎しみが自分の最良の意図を妨害するものであることを知ります。これが精神世界における事実です。
こうして、心魂の思惟のなかで憎しみが消滅していくのが分かります。自分が憎んでいた人が死ぬと、恥を感じるようになるから
です。
透視者でないと、何が起こっているのか、知ることができません。しかし自分を観察すると、「死者は私の憎しみを見ている。私
の憎しみは、死者のよい意図を妨害するものなのだ」という自然な感情が、心魂なかに生じます。
精神世界に上昇すると、そのような感情を生み出すもとになっている事象に注目できます。そのようにして明らかに深層の感情
が、人間の心魂のなかにはたくさんあります。地上にある多くのことがらを、単に外的−物質的に観察しないようにし、自分を観
察して、「死者から観察されている」と感じると、死者への憎しみが消えていきます。
私たちが死者に対して抱く愛、あるいは単なる共感でも、死者の歩む道を楽にし、死者から妨害を取り除きます。
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