霊界の境域




境域の守護霊

超感覚的世界への参入の瞬間には本来何が生じるのであろうか。自分であった存在を見るのである。今この存在は感覚界か
らは見えない。幻想を混じえることなく、この存在の真の姿を霊界から見るのである。この存在を見ることによって、自分の霊的
価値を判断する認識の力によって全身を貫かれたと感じる。このような観察から、なぜ超感覚的世界へは畏怖を覚えることなし
には参入できないのかが明らかになる。霊界参入に対して持つ力の度合いが示されるのである。思考存在としての人間がいか
に超感覚的世界から遠くにいるかを知るのである。詳細に自己を洞見すればする程、意識を以て感覚界に留まろうする傾向が
強く現れてくる。この傾向を認識しなければならない。認識することによってのみ、この傾向は克服できるからである。だが、認
識しようとする時、この傾向は特別の力を持って魂を征服しようとする。魂はこの力によって底知れぬ深みに引きずり込まれるよ
うに感じる。自己認識の瞬間は厳粛なものである。世間では自己認識に関して、あまりに哲学的、理論的な考察がなされてい
る。このことは、むしろ、魂の目を自己認識に結びつく厳粛さからそらせる。人間の本性は、自己体験を自分の中で発展させて
成熟するまでは本能的に霊界への参入を拒否するように組織されている。超感覚的世界の存在との最初の意味深い出会いに
は、自己の真の発展が先立っていなければならない。自己の発展は人類の進化の中で継続してゆかねばならない。

人間の中に、超感覚的世界に参入する時に乗り越えねばならない境域を注意深く見張っている存在がいるということができる。
この人間の中にいる存在、自分自身に他ならないが、目が自らを見ることができないように、通常の意識によってはほとんど認
識できないこの存在が、霊界の「境域の守護霊」である。自分の外に立って、他者のように自らに対峙する時に、「境域の守護
霊」を知るのである。

超感覚的世界の他の体験と同じく、「境域の守護霊」は強化された魂的諸力を可視的にする。「境域の守護霊」との出会いが智
へと高まるのが霊視される。「境域の守護霊」との出会いは霊視力を得た者のみに生じるのではない。「境域の守護霊」との出
会いを生じさせる状況は、眠りに入る時、全ての人に生じる。「境域の守護霊」との対峙である自己との対峙は、睡眠の間中、
継続する。睡眠中、魂は自らを超感覚的実体へと高める。ただ、魂の内的な力が自己意識を喚起する程には強くないのであ
る。

超感覚的体験のかすかな始まりを理解するために、超感覚的事象についての知識を形成することなしにも魂は超感覚的体験を
持てる、ということに注意しておくことは特別重要である。霊視体験は最初、非常にかすかに現れる。修行者はしばしば、手で触
れられるような霊体験を希求し、掠め去るような霊視の印象を重視しないが、霊視体験は手で触れられるようなものとして生じる
ことはない。霊視体験は現れると同時に忘却の彼方へ消え去る。霊視の印象は、全く注意されぬかすかな雲切のように意識に
現れる。大抵の人は霊的観照を全く違った風に期待しているので、霊界を見出すことができないのである。----このこととの関
連に於いても、「境域の守護霊」との出会いは重要である。魂の力が自己認識の方向に直接的に向けられていると、「境域の守
護霊」との出会いはかすかに掠め去って行く霊的光景にすぎないが、他の超感覚的諸印象のようには、この「境域の守護霊」と
の出会いは簡単には忘れ去られない。他のものよりも、自己の実質には興味を引かれるからである。----「境域の守護霊」と
の出会いが必ずしも最初の超感覚的体験である必要はない。力を得た魂は様々な方向に向かうことができる。「境域の守護
霊」との出会いの前に、他の霊的実在、霊的事象の観照へと魂は導かれてゆくことができる。とはいえ、超感覚的世界への参
入後、比較的早い時期に「境域の守護霊」と出会うことになる。(P55-P58)
(関連ページ) いかにして腸感覚的世界の認識を獲得するか-境閾の守護霊  歴史を生きる-境域の守護霊  神秘学概論-境域
の小監視者と大監視者




インテュイション認識

インテュイション認識に於いて、前に述べた意志の行を通して、修行者は客観的な宇宙的霊的諸実体の世界の中に入り込むこ
とになる。修行者は原始人のみが有した体験を獲得する。原始人はあたかも自分の肉体と結びついているかのように、宇宙の
内部存在と結合していた。この肉体の経過は現代人の場合のように全く無意識だったのではない。肉体の経過は魂に反射され
ていた。原始人は自らの発育過程や新陳代謝を、白昼夢のような形で魂的に体験していた。原始人は夢想的インテュイションを
有していた。今日では、ある霊能力を持って生まれた人々のみがこの夢想的インテュイションの名残を有している。原始人の意
識にとって、周囲の世界は物質的であると同時に霊的であった。夢のように体験されたものは、原始人にとって宗教的啓示であ
った。この啓示は原始人の人生に直接つながるものであった。原始人が霊的世界で夢のような意識を以て体験したものは、現
代人にとって全く無意識なものとなっている。超感覚的なインテュイション認識を獲得した者は、その体験を全く明瞭な意識の上
にもたらす。このことを通して、神秘学徒は新たな方法で、宇宙意識がまだ宗教的内実を放っていた原始の状態へ還えるので
ある。

哲学者は全き意識を持った子供であり、宇宙論探求者は全き意識を持った人類進化の中期にある人間である。現代的な意味
での宗教認識論者は原始人に似た者となる。ただ、原始人のように夢想的な状態にあるのではなく、未来の真の宗教家は、完
全に目覚めた意識を以て自分の魂の中で霊界を体験するのである。(P200-P201)


かつての人類と今の人類

今日の人間の魂の状態は、長い時間をかけて、進化の過程を通して獲得されてきたものである。ところが、普通、あたかも太古
の時代から、人間は今日と同じように考え、欲し、感じていたかのように「歴史」には記されている。これは誤りである。人間の魂
の状態が今日とは全く異なっていた時代がいくつもある。かつて、眠りと覚醒の間には、はっきりとした区別がなかった。今日、
眠りと覚醒との間の移行期には夢を見る。太古の人間は、目覚めと意識を失った眠りとの間の、感覚の取り去られた、像に満ち
た中間状態を体験していた。そしてこの状態を通して、感覚によって物質を知覚するように、霊が啓示されたのである。

思考によってではなく、心象を通した体験の中で、太古の人間は地上に受肉する以前の状態を、夢を見るように経験していた。
霊的世界を通過してきた余韻の中で、自らを前地上的魂存在として体験したのである。けれども、そのために、太古の人間は現
代の人間が有するような明確な自我体験を持てなかった。太古の人間は現代人のように自らを「私」とは感じなかった。「自我」
体験は人類の霊的進化の過程の中で徐々に獲得されていったのである。(P226-P227)