14歳からのシュタイナー教育
全人教育
私たちはなんらかの教材をこなすだけでなく、特に子どものこころとからだの関連に注意を払う授業ができなければなりません。
常に「人間であること」に意識を向けなければいけません。人間を全人として受けとめ、睡眠中にも非常に活発に生きている存
在なのだということを知っていなければなりません。
眠る働きが顧慮できず、できてもせいぜい衛生上の注意しかできないのが今日の授業態度です。授業で学んだことは、睡眠中
にも作用し続けるのです。このことが理解できません。どうしようもない結果が生じてしまいます。すなわち、睡眠中こころがから
だの外に出ていくことを無視することによって、人間をロボットにしてしまうのです。
今日の教育と授業は、多くの点で、人間性育成の教育と授業なのではなく、人間ロボットの異様な形態を育成する教育と授業
で、その典型が上級公務員採用試験制度です。今日ではすべての教育が本質的に上級公務員試験を目ざしています。この試
験制度の本質は、人間がもはや人間ではなく、ひとつの終結した、典型的な存在であると考えることにあります。上級公務員採
用試験候補者であれば、その人間がAであるかBであるか、XであるかYであるかは、どうでもよいのです。
このことは、教育者が覚醒時の人間だけに眼を向けてきたことに基づいています。そもそも教育者は、人間の霊性を否定し、そ
うすることで眠ってから目覚めるまでのことを何も考えようとしなくなったのです。
近代哲学においては、このことが愕然とするほどに、デカルトにもベルグソンにもあらわれています。いずれの哲学者も、自我を
人間における持続的なものである主張しています。常に自我に眼を向け、自我の中に現実を見出すべきである、というのです。
私ははっきり次のように問いたいのです。人びとは眠りはじめると、存在することをやめてしまい、目覚めるときになって、やっと
再び存在しはじめることになるのか、と。
なぜなら自我は、眠ってから目覚めるまでの時間には見出せないからです。その間の自我は存在しなくなっています。ですか
ら、デカルトやベルグソンの存在方式は、「私は思考する。故に私は存在する」ではなく、「私は1867年6月2日の朝6時から夜
の8時まで思考した。それ故私は、この期間内に存在した。次に私は翌日の朝6時から夜8時まで思考した。それ故この時間内
にも存在した」なのです。
このような立場ですと、存在は一貫性のないものになってしまいます。睡眠中の存在を無視しなければならなくなります。けれど
も、人びとはそう考えようとしません。なぜなら、さまざまの理念や抽象概念だけをまともに受けとろうとして、人間本性の根底に
ある現実を、まじめに受けとろうとしないからです。
授業はこの「現実」に向き合わなければなりません。その時はじめて、「人間」が教育できるからです。立派な教育制度が作れ
るかどうかを心配する必要はありません。「人間」として教育された人間が、教育制度をつくればいいのです。
精神生活が独立したものでなければならない理由は、まさにこの現実の中に見出せるのです。教育制度は国家がつくってくれ
るのではなく、人間教育の結果として生じるのです。精神生活は、国家や経済の付属物ではありません。精神生活は、自分自
身の中から自らを発展させていくべきものなのです。(P69-P71)
音楽と想像力
想像力が乏しく、イメージの浮かび上がりにくい子どもには、なるべく器楽の練習をさせます。一方想像力の豊かな、イメージに
悩まされがちな子どもたちには、その極端な場合にも、なるべく歌唱の練習をさせます。
もし同時に演奏したり歌ったりできれば、----もちろんそのためには音楽室が必要になりますが----最高でしょう。音楽に耳を
傾け、そして同時に音を出すことができれば、子どもの心は調和されます。(P86)
現代教育の実相
私たち人間の内面生活にとって、教育はまったく不必要なものになってしまいました。今日の教育は、せいぜいのところ、外面
的な人間関係に秩序を与え、機械的に人間を働かせるために役立っています。私たちはそのように働かされるための準備を受
けているのです。人間として必要なものは、そこから受け取れません。教育は血や肉の中に入っていきません。もっぱら知的な
ものに留まっています。感情と意志のためには、何も役に立ちません。教育上、子どもに良い影響を与えようとしますと、せいぜ
いお説教をするしかありません。外側から何かを言うしかないのです。しかし内的な働きかけは何もできません。
ですから、今日、若者たちの前に立つとき、そこには恐るべき虚偽が働いているのです。良き人間にならなければならない、と
私たちは言います。けれども良き人間であり得るための何かを、若者たちに与えてはいないのです。若者たちはただ、権威に従
うように私たちに従うことができるだけです。私たちは高齢になるまで、サーベルをつけた姿で若者たちに向き合おうとしている
のです。もしも若者たちが従おうとしないのなら、いつかは警察の力をかりなければならなくなります。私たちが言ったことを、警
察の手で実行させようというのです。
人間の内面生活に何の役にも立たない頭だけの認識だけでは、若者たちに手を差しのべることができません。こころとからだを
相互に関係づけなければならないこの重要な人生の一時期の若者たちにはです。
生きるためにこころをからだと結びつけようとしている若者たちに対して、何をすることができるのでしょうか。これについては、明
日申し上げます。どうぞ、この問題をよく考えてみて下さい。今日は主として、皆さんの感情を呼び覚まそう努めました。この問題
は世界観全体の問題でもあるのです。私たちは特別に重要な一時期を迎えている子どもの魂への通路を今見出さなくてはなら
ないのです。(P138-P139)
古代の太陽観
現代の物理学者や天文学者は、地球から約2千マイル離れたところに巨大なガス体がある、と思い込んでいます。それは燃え
ている、宇宙の巨大なガス・コンロなのです。このガス・コンロは壁の前に置かれてはいませんから、光と熱をあらゆる方向に放
射しています。これが現代人の唯一の太陽観です。けれども次のことを考えてみて下さい。私たちが光に包まれて立っていると
します。いたるところに光が充満しています。けれどもその光を反射するものはどこにもありません。光がどこからも戻ってこない
のです。そうしたら、この光に充ちた空間は完全な闇でしょう。何も見えぬ、完全な闇です。光だけがあるところは、完全な闇な
のです。光はどこかで捉えられなければ、戻って来ませんから、まったくの闇になってしまうのです。
ですから昔の良き時代には、上天に巨大なガス・コンロがあるなどとは思わず、そこには空虚な空間が、というよりは、空間以下
の空間があり、そこは負の空間になっている、ということを知っていました。今日の物理学者が太陽のところにまで出かけていっ
たら、きっとびっくり仰天したことでしょう。巨大なガス球があると思って場所には、そんなものはなく、通常の空間もなく、空間を
抜き取るような空間吸収力が働いているのですから。抜けた空間地帯が存在するのです。いたるところに空間があるとしても、
負の空間、マイナスの空間もあるのです。ただその際、「空間よりもマイナスである」という言葉を具体的にイメージしていただか
ねばなりません。一文なしの状態よりも、もっとマイナスな状態が借金している状態である、とイメージできるようにです。
けれども空間は一定の境界をもっていますから、負の空間が宇宙の光を捕らえますと、光を通過させず、そこだけは光の反射を
受け、それによってそこに、太陽が眼に見えるものとなって現れるのです。その空間のいたるところに光が現れるのです。太陽と
いう存在は、光を反射する存在であり、光をいたるところへ向けて放射する反射機関なのです。
宇宙の光はギリシア人の考え方によれば、その起源を黄道獣帯よりももっと遠いところにもっています。それは遥かな宇宙の果
てから来るのです。私たちの空間の延長上からではありません。しかしそれが捕捉され、太陽によって可視的となりますと、そ
れによって惑星作用よりも高次の「自我作用」を生じさせるのです。
太陽が自我と結びつくのは、太陽が空間よりもマイナスの存在であり、空虚な空間よりももっと空虚であり、太陽の存在すること
ろでは、すべての物質が存在をやめて、霊性が吐き出されるからなのです。ですからギリシア人は、存在全体を霊的に理解して
いた故に、自分が太陽に身近だと感じたのです。
西暦6世紀まで、特に4世紀中葉まで、西洋の人びとは天を見上げれば、霊的な世界へ参入できるという、生きいきした感情を
持っていました。ですからここで惑星として述べていることは、眼に見える惑星のことなのではなく、ヒエラルキアのことなので
す。つまり惑星をつき動かす存在のことなのです。この点を生きいきとイメージできれば、私たちはこの世の自分を人間として、こ
れまでとはまったく別様にイメージできるでしょう。(P154-P155)
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