治療教育講義




肝臓の働き

皆さん、現在の病理学が診断するさまざまな病気は、病気の粗雑な部分であって、その微妙な部分は、組織学の手の届かぬ
ところに、たとえば肝臓という臓器の中を流れる液体成分の中に存在しているのです。もしくは肝臓の中を流れる気化された部
分の中に存在しているのです。そのような場合、臓器をよく温めることもまた、魂のいとなみを助ける作用をします。

ですから子どもに意志の欠陥が見られる場合、まず第一に次のように問わなければなりません。「この意志の欠陥は、どの器官
のどのような病気と関連しているのか?」これはとても大切な問いなのです。

魂の働きの中でも思考の欠陥はそれほどまでに重要ではありません。たいていの欠陥は分析過程でいとなまれる意志の欠陥
です。ですから思考の中に欠陥があったとしても、その思考の欠陥がどれほど意志の欠陥に依存しているか、注意深く観察で
きなければなりません。(P18-P19)

そもそも肝臓は今日の生理学が記述しているような臓器であるばかりではなく、考えた事柄を実際の行為に移し替える勇気を
与える器官でもあるのです。たとえば電車をやり過ごしてしまうような人が実際にいます。バーゼルまで電車で行かなければな
らないと知っていて、電車が眼の前に止まっても、最後までそれに乗ることができないのです。何かがその人を引きとめて、電
車に乗せまいとするのです。この非常に特徴的な意志の停滞を通して明らかになるのは、微妙な肝臓の欠陥があるということで
す。肝臓はいつでも、心に抱いている観念を、手足で行う行為に置き換えるための仲介をします。この意味では、人間のどの器
官も何らかの仲介役をしているのです(P23)


教育者が子どもに作用させるもの

ここで教育上のひとつの原則が問題になってきます。すべての教育にとって必要な原則です。すなわち、この世においては、人
間本性のどの部分がどんな現れ方をしていても、その部分に有効な働きを及ぼすことができるのは、人間本性のそれよりも一
段高次の部分なのだ、ということです。人間本性のどの部分も、そのような高次の部分を通してのみ有効な発達を遂げることが
できるのです。肉体を発達させるためには、エーテル体の活動が必要であり、エーテル体を発達させるためには、アストラル体
の活動が必要であり、アストラル体を発達させるためには、自我の活動が有効な作用を及ぼすのです。そして自我のためには
霊我の活動だけが有効な作用を及ぼすことができます。私はこの観点をさらに霊我以上にわたっても述べることができますが、
そのときはすでに秘教上の行法に関わることになってしまうでしょう。

それではいったい、この法則は何を意味しているのでしょうか。或る子どものエーテル体が何らかの仕方で萎縮してしまっている
ことが分かったら、皆さんは自分のアストラル体を使って、それが子どものエーテル体に良い作用を及ぼせるようにしなければな
りません。ですからこの教育原則を次のように図式化することができます。

教育者 のエーテル体---(作用)--→子どもの肉体
教育者 のアストラル体---(作用)--→子どものエーテル体
教育者 の自我---(作用)--→子どものアストラル体
教育者 の霊我---(作用)--→子どもの自我

教育者のエーテル体は、子ども肉体に有効な働きかけができるような在り方をしていなければなりません。そしてこのことがで
きるように、教員養成期間中、十分に準備されねばなりません。教育者自身のアストラル体は子どものエーテル体に、その自我
は子どものアストラル体に有効な働きかけを行うことができなければなりません。その次の段階は、おそらく皆さんには恐ろしい
ことと思われるでしょうが、次は教育者の霊我が問題になるのです。皆さんは、自分の霊我はまだ発達していない、と確信して
いらっしゃることでしょうけれども、その霊我が子どもの自我に有効な働きかけをしなければならないのです。それが教育の原則
なのです。そして理想的な教育者の場合ではなく、しばしばもっともひどい教育者の場合にも、そして当の教育者自身がそれを
全然意識していなくても、教育者の霊我が実際に子どもの自我に有効な働きかけをするのです。このように教育実践は、秘儀
の行為でもあるのです。

けれども今は、子どもの萎縮したエーテル体に教育者の健全なアストラル体が働きかける場合を考えようと思います。いったい
この関連において、今日の教育者のアストラル体はどのように教育されることが、自己教育されることが必要なのでしょうか。人
智学は現在のところ、ただ刺激になることができるだけで、すべての問題について、すぐにそのためのゼミナールを開くことはで
きませんが、いずれにせよ、教育者のアストラル体は、子どものエーテル体の萎縮した部分に本能的な理解が持てなければな
らないのです。

たとえば子どもの肝臓部分のエーテル体が萎縮していたとしましょう。その場合、子どもは常に何かをしようとする意図を持ちな
がらも、その意志が行動の一歩手前で立ち止まってしまうのです。そのようなとき、教育者がこのことに感情の全エネルギーを
もって内的に関わり、この停滞を一緒になって感じ取り、それに自分の心を同調させることができるならば、自分のアストラル体
で、子どものこの状況をよく理解できるようになります。そして次第に子どもの態度に対するあらゆる種類の主観的な共感や反
感を消し去ることができるようになります。

教育者が自分の主観的な共感や反感を排除することは、自分自身のアストラル体に良い自己教育的な働きかけをすることなの
です。たとえば行こうするのに行けない子どもの態度に対して、教育者がすぐに共感や反感をいだくかぎり、どんなにわずかでも
それによって興奮させられてしまうかぎり、有効な教育はできません。子どものそういう態度は、いつでも病的な状態にいたりう
るのですが、まったく病的な場合には、歩行する能力がないのではないかと思えるほどです。教育者がそのような現象を前にし
て、それを客観的に眺め、何も心を動揺させないでそういう態度に心を同調させるようになったとき、正しい態度で子どものそば
にいることのできるアストラル体を持つことができたのです。それさえできれば、後のことは、多かれ少なかれ正しく配慮できる
でしょう。なぜなら、愛する皆さん、人が教育者として表面的に語ったり、語らなかったりすることが、本質的にはどれほどどうで
もいいことなのか、皆さんにはとても信じられないでしょう。教育者としての自分がどのような存在であるか、ということだけが本
質的に重要なのです。(P40-P43)


小さな霊と話す子供

いろいろな問題を一度に取り上げないで、もう一度昨日の例から始めようと思います。この少年はほかにもなお特別な心的徴候
を示しています。この少年は、来たときからすでに、その徴候を示していました。右の人指し指に小さな霊をくっつけていたので
す。この霊のことを、彼はいつも「アッシーちゃん」(Bebe Assey)と呼んでいました。まるで普通の人と話しているかのように、彼
はこの霊と話をしていました。まったく現実の存在であるかのようにです。この霊は狼人間のように、変身を遂げることもできまし
た。突然変身し、たとえば、しばらくのあいだはライオンとなり、ライオンのように吠え続けました。別なものにも変身したのです
が、いちばん好きな動物はライオンでした。

このことからも分かるように、少年のアストラル体は、正常な仕方で肉体の中に沈むことができず、その一部分が外に残ってい
たのです。実際、アッシーちゃんは、アストラル体の残余部分です。そのようなときのアストラル体は、その一片が垂れ下がって
います。そしてそこに外から四大元素の霊が憑依しています。そこではこの客観的な(つまり外からの)働きと内なる主観的な働
きとが混ざり合い、融合しています。教育者にとって大切なのは、アストラル体が、硬化している身体組織の中に完全には入り
込めないでいる、ということを知ることなのです。

皆さんも、自分のアストラル体を肉体から引き出して、肉体の中に収まりきれなくしておけば、皆さんのアストラル体はあらゆる
種類の変身を遂げて、動物のような形を示すことでしょう。実際、アストラル体は、肉体とエーテル体に半分か四分の三しか結び
ついていない場合、またはすぐそばにあって、独立した在り方をしている場合、動物の姿になるのです。この子の場合、そのよう
な現象がはっきり現れていましたので、アストラル体とエーテル体との調和を生じさせることがとても難しかったのです。(P139-
P140) 
(関連ページ) メルヘン論-見えない友だち

教育=治療

昔の人びとにとって、治療とは、アーリマン的かルツィフェル的か、その一方に傾いて形成されたものを、善き霊の働きを通し
て、アーリマン的とルツィフェル的との中間に近づけることでした。アーリマン的なものとルツィフェル的なものの均衡を保つことが
治療だったのです。そして教育を通しても、人間は一生のあいだ、同じ均衡をとるように促されました。

昔の人はどんな子どもの中にも病的と言える障害がある、と考えていました。その障害は治療を必要とするものでしたから、治
療と教育は古代のことばにおいては、同じ意味を持っていました。教育はいわゆる健常者のための治療なのであり、治療はい
わゆる障害のある人のためのその特殊ケースであるにすぎません。

子どものこころとからだは互いに深く結びついていますから、子どもに薬を与えるとき、それが子どもの身体だけに作用する----
一般の考え方はそうですが----と思ってはいけません。どんな薬もおとなの場合とは比較にならぬくらい、こころに本質的な作
用を及ぼします。(P244-P245)


生成しつつある自我

現在の自我は生成しつつある自我であり、来世になってはじめて現実に存在するものとなるのです。

現在の自我はまだ赤ちゃんなのです。そして事柄の本質を洞察する人は、自己中心的な態度で泳ぎ廻っている人の中に、官能
的な女性のヴィジョンを見るのです。赤ちゃんに対してこころの中で官能的な喜びを感じている女性のヴィジョンです。とはいえ、
そのような快感は正当なものです。なぜなら女性にとって、子どもは他者なのですから。女性の自己中心的な態度を霊視する
と、そこに赤ちゃんを優しく胸に抱いている姿が見えてくるのです。そして今日の社会にはいたるところで、胸の中に赤ちゃんを
優しく抱いている人の姿がアストラル的な像として見えてきます。

古代エジプト人たちは、有名なスカラベを作り出し、スカラベという自我を少なくとも頭部に担っていました。今日の人間は自我を
胸に優しく抱きとめているのです。私たちの日常の行為をこのイメージと比較することもまた、教育者にとってはきわめて有益な
瞑想になるのです。(P250-P251)