シュタイナー経済学講座




労働を何かと交換することはできない

交換されるもの同士の間に、貨幣を導入することは虚構です。しかし、そのことは重要なことではありません。貨幣が生産物の
交換を促進し、容易にし、安価にするのでなければ、わたしたちは貨幣にいささかの関心も抱かないでしょう。「分業社会」のな
かで生産物を市場に供給する者は、自分の必要物資を直接手に入れる代わりに、貨幣を受け取ります。つまり、自分の必要物
資は、その貨幣で調達するのです。そのために、貨幣は必要なのです。ですから実際には、「《経済プロセス》における貨幣は、
生産物間の価格形成圧力である」と、言うことができます。

一度この観点から、労使関係、雇用関係を考察してみましょう。わたしたちは、労働を何かと交換することはできません。労働と
それ以外のものとのあいだには、相互評価の可能性がないからです。わたしたちには、「労働に対して金銭が支払われる」との
思い込みがあります。労使関係が生じることによって、この思い込みは現実化します。

実際には、労働に対して金銭が支払われることはありません。現実に生じているのは、まったく別のことです。実際に生じている
のは、「雇用関係、労使関係においても価値が交換されている」ということなのです。

労働者は何かを製造し、その製品を引き渡します。その製品を経営者は買い取ります。経営者は、労働者が提供する製品に対
して、支払いをするのです。わたしたちは、ものごと正しく見なくてはなりません。経営者は、労働者から製品を買い取るのです。
経営者は製品を買い取ったあと、その経営方針に従って、「その製品をより高値で社会有機体一般に供給する」という課題を持
ちます。そうすることで、利潤が得られます。経営者は、労働者から商品を買ったあと、市況をとおして、さらに価値を高めること
もできます。

雇用関係において、わたしたちはまさに購買に関わります。雇用関係において「剰余価値」が生じる、と言うことはできません。
製品は相互に価値を決定しあうことで、本来の価格を獲得します。けれども流通過程上、その価格がきちんと支払われないケー
スがあることを、わたしたちは《経済プロセス》のなかに発見するでしょう。流通過程上、すべての価格が支払われるのでないこ
とは、とても容易に洞察できます。(P130-P132)
(関連ページ)  現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心-労働が直接対価を生むのではない


需要と供給と価格----三つの方程式

きょうは、現実に則した国民経済学的な考察をもって、経済活動を実践しようとするとき、その妨げになるいくつかの概念を訂正
しようと思います。現実生活に実りをもたらさない経済学は、本来、価値のないものです。そのような、ただ考察するだけの経済
学から得られる概念は、不当なものです。

わたしたちはすでに、国民経済的な考察において、価格の問題が一番重要であることを知りました。今まで述べてきたような意
味で、価格を見ることが大事なのです。ある生産物の価格は、「上昇するのか、下落するのか、それとも安定するのか」、あるい
は、「高値と感じられるか安値と感じられるか」というかたちで、わたしたちに示されます。経済有機体のなかで事象が秩序然と
しているかどうかを、価格はわたしたちに示します。価格というバロメーターにしたがって、経済活動のなかで行うべき仕事を見
出すのが《経済連合体》に与えられた課題です。

多くの人々の間に広まっている見解は、「価格の問題なら、需要と供給の作用のままに、おのずから生じるに任せておけ」という
ものです。国民経済的事実に基づくのではなく、近代に現れてきた社会的な傾向に強いられて、アダム・スミスのみならず、非
常に多くの人々がこのような見解を述べています。けれども、「価格は経済活動のなかで、需要と供給の条件によって、自動的
に調整される」という、この見解は揺らいでいます。スミスらは、「もし供給が過剰になれば、それを減少させるよう、おのずから
導かれるにちがいない」と、主張しています。「そして、価格もおのずから調整される」と、言うのです。「需要が多すぎたりすくな
すぎたりしても、生産量は調整されるにちがいなく、需要と供給のバランスによって、価格は市場で安定的な状態に近づく」と、
言うのです。

そのような見解をもって、「単に理論的・概念的に説得しようとするだけなのか」、それとも、そのような見解をもって「現実のなか
に降っていこうとするのか」、そこが問題です。しかし、この見解をもって現実に立脚することはできません。というのも、そもそも
「需要と供給」という概念に取り組むと、「その概念をただ並べただけでは、国民経済的意味での現実把握は不可能だ」というこ
とが、すぐにわかるからです。皮相な考察者なら、そのような概念を掲げることができます。人々を市場に送って、「需要と供給
がどのように作用するか」を観察させることもできるでしょう。しかし、そのような概念で何かをしっかりと手に入れられるほど「深く
《経済プロセス》を認識できるかどうか」は疑問なのです。

実際、そのような概念では、みなさんは何も手に入れることはできません。その概念によって表現しようとするプロセスの「背後
にあるもの」が、いたるところで抜け落ちるからです。市場で需要と供給が生じるのを、みなさんは見ます。しかし、需要の「背後
にあるもの」、供給の「背後にあるもの」を、その概念は包含していません。市場には、現実に生じる《経済プロセス》がるので
す。

きちんとした概念を形成しようとするなら、その概念は、人生に対して柔軟でなくてはなりません。「現実から現実へと担ってける
概念」を、持つことができなくてはなりません。そして、その概念はまた、変化しうるものでなくてはなりません。概念は、空中を
疾駆するものであってはなりません。需要という概念、供給という概念は、空中を疾駆するものです。

だれかが商品を市場に持ってきて、何らかの価格で売りに出すなら、それは供給です。「それは供給だ」と、みんなが主張しま
す。しかし、わたしは「いや、それは需要だ」と、反駁します。

だれかが品物を市場に持ってきて、それを売ろうとするとき、それはその人においては「金銭への需要」なのです。国民経済の
関連を深く追求しないと、「商品の供給」による「金銭への需要」なのか、あるいは大まかな意味での需要なのか、その区別が
できません。わたしが需要しようとするとき、わたしは金銭を供給する必要があります。

「商品の供給」は「金銭への需要」であり、「金銭の供給」は「商品への需要」です。これが国民経済の現実です。《経済プロセ
ス》は、交換あるいは取引であるかぎり、「買い手においても、売り手においても、需要と供給が存在する」という形で推移しま
す。買い手が金銭を供給するとき、つまり商品を需要するとき、その背後で、《経済プロセス》が展開しなくてはなりません。商品
が供給されるときも同様です。

ですから、「需要と供給の相互作用から価格が決まる」と考えるなら、わたしたちは現実的な概念を得ていません。

価格=f(需要・供給)

というような関数で、価値が決まることはないのです。「需要者が金銭の供給者になれるか否か」、その条件によって価格は決
まってくるからです。経済プロセスにおいては、ある数量の商品が供給されることが問題なのではなく、その商品との交換で、
「金銭を供給される人々がもう一方にいる」ということが大事なのです。こうして、「需要と供給の相互作用については語れない」
ということが、ただちに示されます。

しかし、誤って形成されることもある概念に依拠するのではなく、「市場の事実」、あるいは市場によらない「商品と貨幣の交換の
事実」に目を向けるとき、需要と供給のあいだで価格が決まるのは当然のことです。純粋に事実として、そうなのです。

需要と供給と価格が、基本的な三つの要素です。わたしたちは、「価格=需要と供給の関数」と書くのではありません。「〈需
要〉と〈供給〉は変動する。この両者から生じるのが〈価格〉だ」とするのでもありません。〈需要〉と〈供給〉と〈価格〉を同等に、
「互いに独立して変動するもの」として考察しなくてはなりません。そして、何らかの値(x)に近づかなくてはなりません。わたした
ちは、ひとつの公式に近づきます。

わたしたちは、「〈需要〉と〈供給〉だけが変動するものであり、その両者の関数として〈価格〉に関わっているのだ」と、考えては
なりません。これら三つは独立して、相互に作用しあうのです。価格は、需要と供給のあいだに存在します。しかし、価格は独特
の方法で存在するのです。

x=f(需要・供給・価格)

わたしたちは、別の角度から全体を考察しなくてはなりません。たとえばアダム・スミスが、需要と供給との関連を市場に見たと
き、彼はその商品の循環を商人の立場から見ていたのです。消費者の立場、生産者の立場から見れば、そうはなりません。消
費者における「所持金とその支出」の関係は、商人における「需要と供給」の関係と同様の展開をします。

「消費者にあっては、価格と需要が相互作用する」のです。価格が高すぎると、消費者の需要は減ります。価格が十分に安い
と、消費者の需要は増えます。消費者の目には、価格と需要だけがあるのです。

「〈消費者〉においては、価格と需要のあいだの相互作用を見るべきだ。〈商人〉においては、需要と供給のあいだの相互作用を
見るべきだ。そして〈生産者〉においては、供給と価格のあいだの相互作用を見ることが重要だ」と、わたしたちは主張します。
生産者は〈供給〉を、《経済プロセス》全体のなかで可能な価格に従って調整します。最初の方程式は、「商人の方程式」です。

価格=f(需要・供給)

アダム・スミスは、この方程式を国民経済全体に適用したのです。国民経済全体に適用するとき、この方程式は誤りです。わた
したちは、「需要は供給と価格の関数」と見ることもできますし、「供給は価格と需要の関数」と見ることもできます。

この前者の「需要は供給と価格の関数」が第二の方程式で、「生産者の方程式」です。

需要=f(供給・価格)

後者の「供給は価格と需要の関数」という第三の方程式は、「消費者の方程式」です。

供給=f(価格・需要)

わたしたちは、消費者においては「金銭の供給」、生産者においては「商品の供給」、商人においては「金銭と商品双方の中間
マージン」に関わります。

これで国民経済は、通常考察されているよりも、はるかに〈複雑〉なものとして考察されなければならないことが、おわかりでしょ
う。人々が概念を短絡的に捕らえようとするために、今日では正常な経済学が存在しないのです。現実にいたるためには、「国
民経済の進行のなかには、いったい何が生きているのか」と、問うことが大切です。(P147-P153)

(注:「関数」という言葉の概念イメージが掴みにくい方は、Wikipedia(関数の項)などでチェックしたのち、もう一度本文を読んでみ
てください。)


貨幣の消耗

閉鎖系の経済領域のなかでの経済関係を研究するためには、経済領域内における「生産・流通・消費」の相互作用のなかに、
「@消費財、A耐久消費財、B貨幣、以上の三つがある」ということを、明らかにしなくてはなりません。食料は短命な生産物で
す。衣服は比較的長命の生産物です。家具はもっと長命です。それらのどれに目を向けるかによって、経済形態に根本的な相
違が出てきます。経済生活のなかで耐久性のある商品の例としては、イギリスなどの王冠の宝石や、ヴァチカンのシスティーナ
礼拝堂のマドンナ図などがあります。芸術作品のなかには、ある意味で永続する成果があります。

分業を基礎とし、流通が大系化されている社会有機体のなかでは、おのおのの産品に対して「等価物」がなくてはなりません。
貨幣上の価値、価格が発生しなくてはならないのです。経済領域をちょっとでも見渡すと、商品価値と貨幣上の価値は変動する
のがわかります。生産物は、ある場所ではある価値を持ち、場所が変われば、別の価値を持ちます。産品は、どのように加工す
るかによっても、価値が変わります。いずれにしても、わたしたちは経済活動全体のなかで----長期間耐用できるものを度外視
すれば----消耗して価値がなくなるもの、ある期間ののちには消失する財に関わっています。

ところが貨幣は、ほかの国民経済的な要素と等価であるにもかかわらず、奇妙なことに、国民経済のなかで消耗しないものな
のです。たとえば、「わたしは5百フラン分のジャガ芋を持っている。5百フラン分のジャガ芋を持っていると、わたしはそのジャガ
芋を消費しなくてはならない」と、表象できます。一定時間ののち、ジャガ芋は消費されて、なくなります。もし、貨幣が加工財と
等価であるなら、貨幣も消耗しなくてはなりません。貨幣は、ほかの財と同じように消耗するものでなくてはならないのです。

つまり、消耗しない貨幣が国民経済のなかにあると、わたしたちは消耗する財に対して、貨幣を特別扱いすることになります。こ
れは非常に重要なことです。

「今持っているジャガ芋を、15年後に2倍の量に増やすために、わたしはどんな活動をしなくてはならないか」と考えるのは、非
常に重要です。それに対して、「今5百フラン持っている人が、15年後、それを1千フランに増やすためにしなくてはならないこと
は何か」と、考えてみてください。その人は何もする必要がありません。自分は労働せずに、ほかの人々に担保をとって金を貸
し、その人々を働かせればいいのです。そのあいだ、自分が消費しなければ、金銭は消耗しません。こうして、社会のなかに
「虚偽」が持ち込まれます。(P218-P220)

貨幣を、純粋に交換における等価物として使用すると、腐敗するものにたいして、貨幣は信用できない取引相手になります。貨
幣は通常、腐敗しないように見えます。「腐敗しないように見える」のです。現実にそぐわない状態が国民経済のなかで進行す
ると、不健全なものが国民経済のなかに発生します。わたしたちの関わっている制度では、貨幣はどんな社会的位置にあろうと
も、自分の「額面」というものを持っています。貨幣は自分の額面を所有し、その額面を保持しているように見えます。しかし現実
には、貨幣はその額面通りのままのものではありません。

肉は時間が経つと腐っていきます。貨幣はそうではありません。ある品物が、何らかの状態をとおして一定の時間後高くなった
り、安くなったりするとしても、その品物自体は、人間生活のなかで同一の価値を持ち続けるにちがいありません。財は、時宜を
得て消費され、新しい財と交代することによって、同一の価値が保たれるにちがいありません。ところが、貨幣はそのようではあ
りません。ですから、純粋に交換手段としての貨幣は、信用できない取引相手なのです。「貨幣も本来変容せざるをえない」とい
うことが、明らかにされないからです。

もし、わたしがきょう肉を1ポンド買い、2週間後、同量の肉をもっと高い値段で買わされたとしたら、それは肉のせいではなく、貨
幣のせいです。貨幣が同じ額面通りであるなら、価値が減少したのですから、貨幣は嘘をついていることになります。肉1ポンド
買うために支払う金額が増えたのですから、貨幣価値は減少したわけです。これはまったく自明のことです。「肉1ポンドを、以
前より高い値段で購入する」ということは、貨幣の流通を通して、国民経済的には実在しないものを《経済プロセス》のなかに持
ち込んだことになります。国民経済的には、ものごとはまったく別のありようをしています。貨幣は、まさに《経済プロセス》をとお
して変容するのです。(P232-P233)


三種類の貨幣

「決済・融資・贈与」という、まったく異なった三種類の貨幣があるわけです。(P234)

人々はいつも貨幣を持っていながら、「貨幣とは何か」を考えていません。ですから、貨幣の本質がなかなか把握されないので
す。貨幣一般というものが存在するのではなく、三種の貨幣が、社会有機体のなかに存在しているのです。そして、それぞれの
貨幣は、異なる《経済プロセス》のなかへ移ると同時に、他の種類の貨幣へと変容します。《経済プロセス》のなかでは、貨幣は
絶えず変容するのです。(P242)