国家が教育を管理すること
近代は国家制度と経済力とに高度に依存した精神生活を発達させた。人間は子どものうちから国立の学校に通うようになる。そ
して自分が育った環境の経済状態が許す範囲内でしか教育を受けることができない。
人びとは、それによって人間が現代の生活状況に良く適応せざるをえなくなっている、と安易に信じている。事実、国家は教育
制度を、つまり公共の精神生活の主要部分を、共同社会にもっともよく仕えられるように形成しようとしており、そして人間は自 分が育った環境の経済力に見合った教育を受け、それによってその経済的可能性が許す場所で仕事をするのが、人間社会の もっともよい成員となることだ、と安易に信じられている。
われわれの公共生活の混乱は、精神生活が国家と経済とに依存していることによる。このことを明示するという、今日あまり歓
迎されない課題を、本書は引き受けなければならない。そしてこの依存から精神生活を解放することが極めて緊急な社会問題 の一部を構成していることも明示しなければならない。
このことによって、本書は一般に普及している誤謬に対抗しようとする。国家が教育制度を管理することは、人類の進歩にとって
望ましい、と以前から思われてきた。そして社会主義者は、社会が個人を社会のために、社会の基準に従って教育することを当 然だと思っている。
人びとは教育の分野で、今日どうしても必要な洞察を進んで得ようとは思っていない。以前正しかったことが後の時代には誤り
になる、というのは、歴史の発展を考える上での必要な洞察であろう。教育制度並びに公共の精神生活が中世において、それ を占有していた人の手を離れて、国家の手に委ねられたのは、近世の社会状況の成立にとっては必要だった。しかしこの状態 を今日も維持しようとすることは、重大な社会的誤謬である。(P15-P16)
労働が直接対価を生むのではない
「貨幣」と「労働」とが交換可能な価値なのではなく、「貨幣」と「労働の産物」とが交換可能な価値なのである。
だから私が労働に対して貨幣で支払うならば、私は間違ったことをしている。なぜなら実際はただ労働の産物に対して貨幣で支
払うことができるだけなのだから。
健全な社会有機体においては、労働を貨幣で支払うことができないということが明らかにされていなければならない。なぜなら
商品と同じ意味で労働に経済的価値を与えることなどできないのだから。労働ではなく、労働によって産み出された商品だけ が、他の商品との比較において、経済的価値を得る。社会有機体を存続させるための人間の労働の種類と程度は、その人間 の能力と生活条件とから規制されなければならないが、このことが可能となるのは、政治国家からこの規制が経済生活の管理 とは独立して生じるときだけである。
(関連ページ) シュタイナー経済学講座-労働を何かと交換することはできない
マルクス主義と三分節化
ヨーロッパは今日その中にはまり込んでいる社会混乱から----もしも眼の前に突きつけられている一定の社会要求を曖昧なま
まに、歪められた状態で放置しておくならば----抜け出すことができないであろう。そのような社会要求として、フリードリヒ・エ ンゲルスがその著『ユートピアから科学への社会主義への発展』の中で述べた次の言葉は、広い社会層の中にも今日も生き続 けている。----「人々を統治する代わりに、物品の管理と生産過程の指導とが現れる。」
プロレタリアートの多くの指導者も、その下に立つプロレタリア大衆そのものも、この発言の元にある立場を信奉している。この
立場は、一定の観点から言えば、正しい。近代国家の土台をなす人間関係は、物品や生産過程を規制するだけでなく、生産分 野で物品を扱う人びとを統治する管理体制を形成してきた。経済生活は物品と生産分野との管理を行う。この経済生活の管理 では人間の統治をも同時に行うことがもはやできなくなった。このことをマルクスとエンゲルスは認識していた。このふたりは、経 済循環の中で資本と人間労働とがどのような仕方で働いているかに注意を向け、そして近代の生活がこの働きを乗り越えてい くのを感じ取った。実際、資本は人間労働に対する権力の基盤になり、物品の管理と生産過程の指導に役立つだけではなく、 人間を統治するための基準にもなったのである。このことから、マルクスとエンゲルスは、経済循環から人間の統治を引き離さ ねばならない、と考えた。その考えは正しかった。なぜなら近代人は、自分が物品と生産過程との単なる添え物となって、それ らと一緒に管理される、というようなことを許すはずがないからである。
しかしマルクスもエンゲルスも、経済過程から人間の統治を切り離して、国家を新たな経済管理システムにまで発展させれば、
事柄が単純に片づく、と信じた。彼らは統治するということは、同時に人間の相互関係を規制することでもあることに気づかなか った。この相互関係は、規制されずにいることができない。経済生活の要求に従った古い仕方で規制がもはや存在しないときで も、自分だけでは自分を規制できないのである。マルクスとエンゲルスはまた、物品の管理と生産過程の指導とに向けられる力 の源泉が資本の中にあること、という事実にも気づかなかった。人間精神は、資本という廻り道をとって、経済生活を指導してい るのである。物品を管理し、生産諸分野を指導するということだけでは、まだ人間精神を育てることにはならない。人間精神は、 常に新たな創造行為の中から立ち現れてくる。そして経済生活が硬直化し、次いで完全に退化してしまうようなことがないよう に、常に新しい力を経済生活に導入しなければならない。
マルクスとエンゲルスは、経済循環の管理が人間の統治を一切含んではならないこと、人間精神を支配する権力が経済循環の
ためにある資本の手に渡されてはならないこと、そして人間精神こそが資本に正しい道を示すものであることを、正しく洞察し た。しかしこのふたりが信じていた考え、つまり統治による人間の相互関係の規制と人間精神による経済生活の指導との二つ が、経済管理から出発しなければ、おのずと存在するようになるであろうという考えは、破滅的に作用した。
経済生活を純化して、その活動を物品の管理と生産過程の指導だけに限るということは、そのような経済生活だけでなく、同時
に古い統治の代わりに、人間精神を経済循環の本当の指導者にするのでなければ、不可能である。三分節化された社会有機 体の立場はこの点を正しく受け止め、精神生活の自主管理を通して、人間の精神力を経済生活の中にも導入する。その精神力 がもっぱら精神の原則の上に立って物品を管理し、生産諸分野を規制するときにのみ、経済生活を、ますます実りあるものにす ることができるのである。
そして精神分野や経済分野から自立した社会有機体の法の分野は、民主主義的に、成人同士の人間関係を規制する。この規
制に際しては、或る人間が他の人間に対して、強力な個性の力や財力による権力を行使してはならない。
マルクスとエンゲルスの観点は経済生活を新しく形成しようという要求に関しては正しかったが、一面的に正しかったのである。
このふたりは経済生活がその隣に自由な法生活と自由な精神生活とを併存させるときにのみ、自由になりうる、ということを理 解しなかった。未来の経済生活の在り方について、はっきりした見通しを持つためには、経済=資本主義的な立場を直接精神 的な立場に移行させ、経済権力から生じる人間関係の規制を直接人間的な規制に移行させなければならない。物品を管理し、 生産過程を指導するだけの経済生活は、それだけを単独に求められるならば、決して実現されえない。にも拘らず、それを求め る人は、これまでの経済生活に不可欠だったものを放り投げておいて、しかもその経済生活の活動を続けさせようとしているの である。
ゲーテは、現代とは異なる時代状況の中でではあったが、豊かな実生活をふまえて、ふたつの命題を提示したことがあった。こ
のふたつの命題は現代の多くの社会要求にも実によく当てはまっている。その第一命題は、「不十分な真理も一定期間は有効 に働く。しかしその時、状況は完全に見通されず、その代わりに、虚偽が現れて、人の眼を欺く。世間にとってはそれでも十分ら しく、そのようにして人びとは数世紀の間だまされ続けていく」。
もうひとつの命題は次のようである。----「一般化された概念と大きな思い込みとは、常に恐ろしい不幸を招く可能性を持つ」。
まことにその通りなのである。われわれの特殊な時代状況から教訓を得ようとしないマルクス主義は、「不十分な真理」なので ある。それは不十分であるにも拘らず、人の眼を欺きながら、プロレタリアの世界観の中で、唯一の真理を担っているという思い 込みによって、影響を及ぼし続けている。そして世界大戦の破局の後では、真の時代の要求に対して、「人の眼を欺く虚偽」と なって現れている。だから「数世紀の間だまされ続け」ないようにしなければならない。プロレタリアートがその「不十分な真理:」 によって、どんな不幸に陥るか認識する人は、そうならないように努力しようとするであろう。この「不十分な真理」から、「一般化 された概念」が生じた。この概念の担い手は、大きな思い込みから、ユートピア的な一般概念を離れて、人生の現実を大切にし ようと努めるすべての態度を、「ユートピア」と称して拒否しているのである。
人生の本当の基礎
経済生活や権利(法)意識と同様に、第三の源泉である人間の個的能力の領域も社会生活の組織の中に持ち込まれてる。こ
の領域は高度の精神労働から単純な肉体労働に到るまでのすべてを含んでいる。この源泉から生じるものは、商品の交換や 国家生活とはまったく異なる仕方で、社会有機体に働きかけなければならない。それは人間の自由な受容力と創意とによっ て、社会有機体に働きかける。しかしこのような受容力や創意が経済生活や国家組織に依存しているなら、それによって人生 の本当の基礎の大部分が取り上げられてしまうであろう。人生の本当の基礎は、自分が自分自身の中から引き出す能力の中 にしかない。このような能力を働かせるとき、その能力を経済生活によって直接条件づけたり、国家によって組織づけたりしてし まうなら、その能力は自由に行使されえない。
われわれはその能力を健全な仕方で社会有機体のために役立たせなければならない。自分の場合も他人も、その個的能力の
発達は見過ごし難いほど多くの糸によって精神生活と結びついている。精神の創造行為は、自分自身の衝動に従うとき、そし てその衝動が人びとに理解されるときにのみ、健全な発達を遂げることができる。
現在、精神生活を見る眼は、曇っている。その眼は政治的国家的生活を精神生活と混同することによって曇らされている。この
混同は最近の数世紀間に生じ、私たちはそれに慣れてしまった。
私たちは「学問と教育の自由」について好んで語るが、政治的国家が「自由な学問」と「自由な教育」を管理するのを当然のこと
と思い、国家がそれによって精神生活を国家的目的に奉仕させていることに気づかなくなっている。私たちは国家が教育の場所 を提供しており、その場所で働く人びとは精神生活を「自由に」いとなんでいる、と思っている。私たちがこのような考え方に慣れ てしまったことによって、精神の内実が人間の本質といかに密接に結びついているかがわからなくなっている。精神生活の自由 な発展は、精神生活そのものから来る衝動を社会生活の中に生かすときにのみ可能なのである。精神的衝動が国家生活の中 に取り込まれたことによって、精神生活における学問の管理の仕方だけでなく、学問の内容そのものもまた特徴的な在り方を示 すようになった。
たしかに数学や物理学の研究内容は、国家からの影響を直接受けないですむ。しかし、歴史その他の文化科学はどうだろう
か。それらは研究者と国家生活との関連を反映しており、また国家生活の必要を反映しているのではないだろうか。(P77-P78) |