死後の生活



死者の書

(タイトル違い・内容同一)


神経系が鏡の働きをする

私たちが普通の日常生活をいとなんでいるときには、意識活動のすべてが脳の働きに結びついていると考えるのはまったく正
当なことなのですが、しかし一体意識は脳とどのように結びついているのでしょうか。通常の意識のまったく及ばない魂の深み
から、まず脳の一定部分に働きかけが行なわれます。それがまず脳の感覚野に作用するのです。識閾下の魂の力が知覚神経
系に働きかけますと、それによって神経系が鏡の働きをするようになります。日常生活の中に現れる意識内容はすべて、魂的・
霊的なものの鏡像なのです。

鏡の前に立つときの私たちは、自分自身を見たり感じたりしているのではなく、ただ鏡の像を見ているのですが、日常生活の中
で表象、感情、意志を働かせるときの私たちも、それとまったく同じような態度をとっているのです。まず魂の深層で働きが起こり
ます。そしてその働きが、何かを知覚させてくれるのです。ですから眼に働きかけて、眼の中に一定の経過を生じさせるのは、
私たち自身なのです。つまり、私たちの魂的・霊的なものです。そしてその眼がふたたび魂的・霊的なものの中に、たとえば色
彩を反映させるのです。(P48-P49)
(関連ページ)霊視と霊聴-脳は魂の鏡である 人体と宇宙のリズム-脳は糞だ


思い出のタブロー

死後の最初の時期に、誕生から死に到るまでに人間が体験してきたすべてについての広大な記憶像が死者の眼前に拡がりま
す。人生の中で忘れられていたすべての出来事もそこに現れます。しかしこの体験は数日間しか続きません。

最初に生じるのは、記憶像を 回顧することでしたが、それはさまざまの人の場合にさまざまな長さで続きます。しかし大略のこ
とでしたら、次のように言うことができます。それは、私たちが何らかの理由で睡眠を妨げられたときに、生活しつつ眠らずに目
覚め続けさせる内的な力の及ぶ限りの間、続くのです。それは人によって異なります。眠らないで起きていられる限度が、この
回顧する期間の長さに当たります。

しかし、その次には、別の魂の力が現れてきます。この魂の力はこれまでのように身体によって妨害されてはいません。さて、
数日後になりますと、記憶像が死者の環境から消えていきます。(P54-P55)


生前の地上生活から抜け出るための時間

思い出のタブローが消えていった後で、魂の中に力強く育ってくる、この意志する感情は、まだ生前の地上生活に関わり続けて
いるのです。

生前に満足させられなかった事柄に対して、死者たちは霊的に渇望しながら、回顧し続けます。それは数年間も続くのです。こ
の数年間における死者たちの世界は、主として生前過ごしてきた世界です。死者たちは生前の地上生活を観、その地上生活の
中で決着のつかなかった事柄を観ます。しかし今は、それに決着をつけるための器官を持っていません。地上においてでなけれ
ば満足させることができないのに、それを何も満足させることのできない領域に数年間も生き続けることによって、はじめて死者
たちは、生前の生活関連から自分を引き離そうとするのです。

この期間の長さについては、次のように言うことができます。「人間が生まれてから3歳ぐらいまで、つまり記憶を蘇らせる最初の
時期までに過ごした時間は、今述べた体験の長さには何の影響も持っていない。同様に25、6に歳以後に過ごした時間も、何
の影響も持っていない。4、5歳から20代までの時間が、死後になって生前の地上生活から抜け出るために働かなければならな
い長さである」。

つまり生前の地上生活から抜け出るための時間は、身体を有機的形成力で成長させるのに必要な期間なのです。ですから、も
し或る人が12歳でこの世を去りますと、生前の地上生活から抜け出るにはほぼ7年間かかるのです。しかし50歳で世を去って
も、20代なかば以後の年月がこの時期を引き延ばすことにはなりません。(P56-P57)


霊視は意図に左右される

人間はさまざまなときにさまざまな仕方で見霊者になることができるのですが、そのようなとき、霊視の内容はいつでも意図に
影響されているのです。意図というのは、合理的な意図というよりはむしろ無意識の本能に基づいた、望む通りに認識したいと
いう願いのことです。たとえば自分の体から離れて、或る死者と関係を持つとき、そのような意図がその人の霊的意識の全体に
影響を及ぼし、意図に応じていないものをすべて見過ごしてしまいます。見霊体験が可能になったとき、その人は死者のもとで
望んでいることを認識しようとして、死者の運命に働きかけます。そして周囲の霊界は----表現は適切ではありませんが----
無視されて、闇のままに留まります。その人は特定の死者との関わりだけを体験するのです。人間が霊界で何を見るかは、そ
の人の意図次第なのです。ですから見霊者が霊界の体験を記述するとき、その内容は人によって無限に異なるのです。それぞ
れ見たことを正確に述べているとしても、霊魂を肉体から分離した後の自分の意図に従って、見ざるをえないからです。(P85-
P86)


霊学を学ぶこと

たとえば誰かが霊学を学ぶときに、一般の学問を学ぶようにではなく、霊学を本当に自分の中に生かすように真剣な努力をして
いるとします。霊学を理論的に研究して、その内容を単なる概念として受け取ることもできますが、私たちは霊学を、決してただ
そのような仕方で受け取るだけであってはなりません。それを私たちの霊的な血液のようなものにして私たちの中に働かせ、私
たちの感情をも呼び覚まさなければなりません。

霊学の語る言葉に耳を傾けるとき、霊学は、一方では私たちを高め、他方では存在の深淵を覗かせます。しかもこの深淵の中
でさえも、自己を失わないようにさせます。霊学を正しく理解する人は、霊学の語る内容を、高揚感をもって、あるいはまた深淵を
直視しつつ、どこまでも追及し続けます。

霊学を学ぶ人は、霊学の概念が自分の中に生きているというだけでも、つまり霊学に必要な用語、必要な考え方の習慣を身に
つけるだけでも、すでに地上界を生きる魂を変化させることでしょう。私はこれまでもよく申し上げてきましたが、霊学そのものを
真剣に研究すること自体が、最上の、もっとも有効な修行になるのです。

さて、このようにして霊学を深く学ぶ人には、次第に或る特別な事柄が生じます。自分自身が見霊者になるために修行をするの
ではなく、霊学を理解することだけに真剣な努力を重ねるような人は、多分これからも長い間、何かを見霊的に体験することはな
いでしょう。いつかはそうなれるでしょうが、しかしそれは多分まだ遠い未来の理想であり続けることでしょう。

けれどもその場合でも、本当に霊学を魂に作用させる人は、自分の魂の中で、無意識の生活衝動に変化が生じるのに気がつく
でしょう。魂が本当に変わっていくのです。霊学を学べば、必ずその霊学が魂の本能的な部分に働きかけます。そして魂を変化
させて、これまでとは異なる共感と反感を持つようにさせ、それによって魂に新しい光を注ぎ入れるのです。魂はこれまでよりも
確かな自己を感じるようになるのです。

このことは生活のどんな分野にも認められます。霊学はどんな生活分野においても、このような仕方で私たちに影響するので
す。生きるのに無器用な人が霊学を研究するようになりますと、特別のことをしなくても、霊学に没頭するだけで、手の先まで器
用になるのです。

「でも、とても無器用な霊学の研究者がいるではないか。霊学を学んでからもう随分になるのに、器用になっていない人がいくら
でもいる」。そうおっしゃる方が多いと思いますが、どうぞ考えて下さい。そのような無器用な人たちは、その人たちのカルマが求
めているほどにまで、本当に内的な仕方で霊学に打ち込んでいるでしょうか。

誰かが画家として、或る程度まで絵画の技法を身につけているとします。その人が霊学を学ぶようになりますと、上に述べた光
がこれまで学んできた絵画技法の中に流れ込みます。その人はこれまでよりももっと容易に色彩を混ぜ合わせ、これまでよりも
もっと早く着想を得ます。

また誰かが学者として、特定の問題を研究しているとします。その人は必要な文献を集めることが、しばしばどんなに苦労の種
であるかを経験させられています。その人が霊学者になりますと、これまでのように方々の図書館へ出かけていって、結局は役
に立たなかった五十冊の書物に眼を通すというようなことをしないでも、すぐに必要な文献に出会うようになるのです。霊学は人
生に直接関わり、本能を作り替え、これまでよりも器用に生きていけるような生活衝動を魂の中に送り込むのです。(P146-
P148)