輪廻転生とカルマ





アルファの神とオメガの神

仏陀、ゾロアスター、ピュタゴラスの間にはつねに関係が存在します。世界のなかで作用するのは力であり、事実であるからで
す。霊的な人物とはともに働きます。彼らは無駄に同時代に生まれるのではありません。人類進化の偉大な衝動は混ざり合っ
て働きます。ゾロアスターはゴルゴタの出来事をとおして実現されるべきものを指して、人間はみずからの内面の力をとおしてデ
ーヴァの世界を見出すことができ、未来に向けてますます進化し、歩みを前方に向けることができると語りました。おなじころ、仏
陀は、霊界が存在する。霊界に対して、感覚界はマーヤーである。地上存在への渇きが目覚めるまえに汝らがいた世界へと歩
みを向けよ。そうすれば、神的なもののなかで休らぎ、涅槃を見出すであろう、と語りました。

これが仏陀とゾロアスターの教えの相違点です。仏陀は「歩みをうしろに向けることによって人間は神的なものにいたることがき
る」と教え、ゾロアスターはザラトスとして「光が地球のなかに受肉するときがくる。そのことによって、魂は前方に向かって歩め
ば神的なものに近づく」と、教えました。

仏陀は「後方に歩めば魂は神を見出す」と語り、ゾロアスターは「前方に歩めば魂は神を見出す」と、語ります。

神はアルファのなかにも探究しても、オメガのなかに探究しても見出されます。後方に向かって歩んでも、前方に向かって歩ん
でも、神にいたるのです。ただ、高められた人間の力によって、神を見出すべきなのです。アルファの神を見出すのに必要な力
は人間の原初の力です。オメガの神を見出すのに必要な力は、人間がみずから地上で獲得しなければなりません。アルファに
戻るか、オメガに進むかはどちらでもいいことではありません。ただ神を見出し、霊界に参入することだけを望む者には、後方に
向かっても前方に向かってもおなじことです。しかし、地球を一段高められた状態へともたらすことに責任をとろうとする者はオメ
ガへの道を歩まねばなりません。(P96-P97)


地球到達以前、キリストは各民族からどう呼ばれていたか

秘儀のなかでは、キリスト存在は常に知られていました。古代インドの七人の神仙たちはキリストをヴィシュヴァ・カルマン(毘首
羯磨)[びっしゅかつま]と呼んでいました。ゾロアスターはキリスト存在をアフラ・マズダと名づけました。エジプトではキリスト存
在はオシリスと呼ばれました。ユダヤ民族はキリスト存在をヤハウェと呼びました。そして、第四文化期にこの存在は3年間地上
に生きました。この存在は将来、ふたたび太陽を地球と結合させます。救世主の傷口から血がゴルゴタの丘に流れたとき、キリ
ストは神秘的に地球と結合したのです。そのとき、キリスト存在は地球のオーラのなかに出現しました。それ以来、キリスト存在
を地球のオーラのなかに見ることができます。最初に地球のオーラのなかにキリストを見たのはだれでしょう。キリスト教の拡大
に大きな貢献をしたパウロです。どのようにしてサウロはパウロになったのでしょうか。教義でもなく、パレスティナでの出来事で
もなく、ダマスコでの超感覚的な出来事によってパウロになったのです。それ以前には、彼は十字架上で屈辱的な死を遂げた
者がキリストであると信じることができませんでした。しかし、秘儀参入者であった彼は、キリストは地上に現れたとき、地球のオ
ーラのなかに見えるようになるというカバラを知っていました。これがパウロの体験だったのです。(P118)



キリストの再来

紀元前3101年に始まった暗黒時代は、すでに1899年に終わりました。この時以来、人間の科学にはまだ知られていないある
能力が次第に発達しはじめています。20世紀において、人類の一部のなかで新しい魂の能力が次第に発達しています。たとえ
ば、20世紀のうちに、人間のエーテル体を知覚することが可能になるでしょう。もうひとつの能力は、人間が自分の内面を見たと
き、夢のなかでのように、自分がこれからおこなう行為のモデルを見る能力です。特別に素質のある人々は、もっとほかの体験
もするでしょう。パウロがダマスコへの途上で体験したことが、多くの人々にとって普通の体験になるでしょう。

そのようなことが20世紀に起こることの意味は、こうです。パウロは、パレスティナで起こったことをすべて知っていましたが、そ
の事件はサウロをパウロに変えることはありませんでした。彼は、ナザレ人のなかにキリストが生きたとは納得できない魂の状
態にありました。ダマスコでの出来事によって初めて、「キリストはここにいる」と、彼の霊視意識はいうことができたのです。

20世紀にダマスコの事件を体験する人々は、キリストについての直接的な知を獲得し、キリストを認識するために文献に頼る必
要がなくなります。今日、秘儀参入者のみが有している直接的な知を持つようになるのです。今日、秘儀参入の手段を用いて得
られる能力が、将来、人類の普通の能力になります。この魂の状態、魂的な体験は神秘学において、「キリストの再来」と呼ば
れています。キリストは肉体にふたたび受肉するのではありません。キリストは、ダマスコへの途上でパウロに現れたときと同じ
ように、エーテル体のなかに現れます。

人類が物質界に限定されていたとき、キリストは物質界に受肉しました。今日、私たちは、「おまえの能力が霊界に開くために、
おまえたちの感覚を変化させよ」という、ヨハネ福音書の言葉を繰り返すことができます。

人間はエーテル的霊視によって、エーテル体の中でキリストを見ることになるからです。この能力は、いま魂のなかに存在して
います。将来、その能力は発達して、人間の運命はある意味において人間の手中にあるということができるようになります。この
能力が現れたとき、この能力は何を意味するのかを知ることが必要になります。今日のように唯物論に退歩することは不可能に
なります。この能力が現れたとき、人々はすぐにはその能力に注意しません。それどころか、そのような能力を持っている人々
は空想家で、病気だと見なされます。(P158-159)
(関連ページ) エーテル界へのキリストの出現-人間の新しい心魂能力





権化としてのキリスト

物質界を経験するために受肉するのではなく、人類の進化に関与するために人体に下る存在は東洋で「権化」と呼ばれていま
す。輪廻転生を繰り返して人類史の歩みのなかで進化を遂げて指導的な立場にいたった存在と、地上への受肉によって自分を
豊かにすることはない、権化と呼ばれる存在とは異なっています。権化はもっぱら人類の救済と進化のために肉体に受肉する
のです。ですから、「一度、あるいは何度か、権化は人体に下るが、ほかの人間とはまったく異なった存在である」と、言われる
のです。

地上に生きたもっとも偉大な権化は、三十歳のナザレのイエスのなかに下ったキリストです。西暦紀元の始まりに、初めて地上
との接触を持ち、三年間肉体に宿ったこの存在はそのとき以来、アストラル界、超感覚的世界の霊的領域と結びついています。
(P25)

初期のキリスト教の秘儀参入者たちは、「今日、ゴルゴタの秘跡を成就した存在として知られているキリストは、もっとはるかな
高みから太陽へと下ってきたのである。その高みに、ゾロアスターはキリストを見た。ついで、キリストの力は太陽の光線のなか
に入ってゆき、そのキリストをエジプトの秘儀参入者たちが見た。そして、いま、キリストは地球体と結ばれた存在として人々の
間を歩む者として見られなければならない。いまや、地球の内部にあって、地球の秘密を見て、そして、復活した姿でキリストは
見られなければならない。この秘密は徐々に人類の進化のなかに注がれてゆく」ということを知っていました。

東洋からひそかに広がってきた、キリスト教の初期の孤独な学院では、キリスト教の秘教的な教えが非常に暖かいいいかたで
教えられていました。キリスト教の秘教的な教義があったのです。初期の教父たちはキリスト教の秘教的な教えをまだいくらか
知っていましたが、一方では、彼らはローマの進撃を見ました。今日、歴史から予感されるよりも、初期のキリスト教的衝動と反
霊的なローマ精神との衝突は激しいものでした。このローマ精神が、キリスト教の深い秘密に浅薄な覆いをかけたのです。

ミサにおいて、聖体拝受でパンを食べるという外面的なものだけが残りました。ローマ精神がキリスト教にもたらした外面性を広
めた者たちが、キリスト教を理解するためには宇宙的な叡智を獲得しなければならないという考え方と強固に戦いました。彼ら
はパウロの教えも理解できませんでした。パウロは雲の彼方から輝きながらやってくる太陽の力、ゴルゴタの秘跡をとおして地
上に下ったキリスト、太陽の力と結合した宇宙的な神性を見たのです。紀元後三、四世紀までは、人々はまだこの秘密を知って
いました。外的な世界認識が強固なものとなり、のちの時代に由来する情報によっても、紀元後数世紀の間、ゴルゴタの秘跡
がどのように霊的に把握されていたかがもはやわからなくなりました。今日、人類は紀元後数世紀の間あったキリストの霊的な
理解をどうしても思い出さねばなりません。(P147-P149)




キリスト教に疲れた魂とキリスト教にあこがれる魂

地上で人智学運動となるべきものを準備するために19世紀前半に合流した魂たちは、つまり、ミカエルの流れを用意したので
す。1870年代に現れ、人類の近代の進化の流れにもっとも意味深い衝撃を与えるミカエルの流れを用意したのです。ミカエルの
地上的・天上的活動のための道を準備するのが、19世紀前半に集まった魂たちの課題だったのです。

これらの魂は、何百年、何千年もの年月をかけたことをとおしてふたたび集まることになります。そして、これらの魂のなかに、私
たちはおもに二つのグループを見出します。ひとつのグループは、紀元後数世紀の間に南ヨーロッパと、一部は中部ヨーロッパ
に広まっていたキリスト教を体験した魂たちです。このキリスト教の信者たちは、キリストは人々のもとで働くために太陽から地
上に下った神的な使者であると見ていました。理解の程度の差はあれ、これらのキリスト教徒たちは、キリストを「偉大な太陽
神」と見ていました。

しかし、紀元後数世紀には、かつて人類が有していた本能的な霊視力はもはやありませんでした。人々はもはや太陽のなか
に、かつてキリストが中央に存在した偉大な霊領域を見ませんでした。キリストの地上への下降を目にした古代の本能的な霊
視力は失われ、紀元後数世紀には、キリストが太陽から地上に下り、ナザレのイエスと肉体において合一したというのは、単な
る言い伝えにすぎなくなりました。このキリスト教徒の多くは、キリストという存在がかつてパレスティナに生きたという表象以外
のものを有さず、キリストの本質について、キリストは神なのか、神であり同時に人であるのか等々ことが公会議で討論されるよ
うになりました。人々の多くは、ただローマから聞いたことしか知らないようになりました。

しかし、これらのキリスト教徒たちのなかに、つねに、異端者と見なされた人々がいました。彼らは、キリストは太陽存在であり、
地上をまったく知らぬ太陽存在として地上の物質的・感覚的世界に下ったことがあるという、いきいきとした伝統的な記憶を有し
ていました。これらの魂は、紀元7、8世紀にいたるまで、「いまキリスト教として広まっているものは、もはやキリストを理解しな
い」と、つぶやきました。

この異端的な魂は、キリスト教に疲れた魂であるということができます。紀元後数世紀から7、8世紀までに死の扉をくぐった、キ
リスト教に疲れた魂がいました。それ以後地上に受肉したかどうかにかかわらず、この紀元後数世紀の間における受肉は決定
的なものでした。

これらの魂たちは、紀元8、9世紀から霊界において、19世紀前半における超感覚的儀式をおこなうための準備をしました。この
偉大な、力強い儀式にこれらの魂は参加したのです。彼らが人智学協会に参加している第一のグループです。

ほかの魂たちは、紀元前数世紀に受肉し、古代の異教の密儀のなかで、霊視的なまなざしをもって霊界を見ることができた者
たちです。彼らは古代の密儀において、キリストがいつか地上に下るということを知りました。これらの魂はキリスト教の最初の
発展を地上で体験しはしませんでした。彼らはその間、超感覚的世界にいて、紀元7世紀以後になってはじめて地上に受肉した
のです。これらの魂は、超感覚的な観点から、キリストが地上の文化のなかに入ってゆくのを見ました。これらの魂はキリスト教
にあこがれる魂です。彼らは真の宇宙的な、霊的なキリスト教を世界にもたらすために活動しようとしました。

この二つのグループが、19世紀前半におこなわれた超感覚的儀式において合同しました。何十年にもわたる偉大な宇宙的・霊
的な祭儀がおこなわれ、物質界と直接境を接する世界で霊的な出来事がおこりました。地上に下って共同して働くことになる、
キリスト教に疲れた魂とキリスト教にあこがれる魂が超感覚的世界で儀式をおこないました。彼らは19世紀末ごろに地上に下
り、人智学協会に加入する準備をしました。

これらのことは、何百年もかけて準備されてきたことです。地上では、福音書をナザレのイエスという人物のみについて語るもの
として受け取り、何らかの抽象的な高みからキリストを告知するキリスト教が次第に広まっていました。人々は星界がいかに霊
的なものを表現し、霊界と関係を有しているかということ対する予感を失い、「キリストは神的な太陽の英雄として、人間の運命
にかかわるためにイエスのなかに下った」ということを理解できなくなりました。

今日通常の方法で歴史を考察する者は、このことを重要視しません。この「異端」的な魂たちは正しく理解されていないのです。
彼ら自身も、たいていは、この異端的な魂たちがキリスト教に疲れた魂、あるいはキリスト教にあこがれる魂として20世紀ごろに
地上に下ったということを知りません。紀元7、8世紀ごろ、キリスト教に疲れた者たちのもとで異端として生きていたキリストにつ
いての伝統が次第に失われてゆきました。ただ、小さな集団のなかで、中世の中期、12世紀までそのような教えは守られたの
です。小さな集団のなかに、霊的なキリスト教、宇宙的なキリスト教についての古代からの伝統を保つ、神の恩寵を受けた教え
のいくらかが存在しました。彼らのなかに、その古代からの伝承を受け入れ、その際、なんらかの霊感を得た者たちがいまし
た。彼らは程度の差はあれ、紀元後数世紀の間に、ゴルゴタの秘跡における太陽神の下降という強大なインスピレーションのも
とに人々が体験したものの反映をみずからの内に見ることができました。(P170-P173)



ミカエル

ミカエルは本来霊的宇宙のなかで何を司っているかを考えなければなりません。ミカエルは霊的なもの、しかし、人間の知性に
よって把握されることによって頂点に達するものを司ります。ミカエルは知性を育成する霊ではありません。しかし、ミカエルが霊
性として与えるものは、理念の形、思考の形、霊的なものを把握する理念と思考の形で、人類に理解されるのです。ミカエルは
人間が自由な存在であり、霊界から啓示として与えられるものをみずからの概念と理念において洞察することを欲します。

太陽に住む大天使たちのなかで、ミカエルがもっとも傑出した存在です。ミカエルは太陽から物質的・エーテル的太陽光線を送
るだけでなく、物質的・エーテル的太陽光線をとおして、霊感を含んだ知性を地球に送る霊なのです。(P196-197) 

ミカエルは龍を足で踏んでいます。ミカエルは宇宙精神を代表して、アーリマン的な力を足で踏んで、戦っています。ほかのどの
ような戦いよりもアーリマンに対するミカエルのこの戦いを心にかけるべきです。

19世紀の70年代からミカエルは人間の心のなかにとどまっています。ミカエルの任務をもって人間の心が20世紀におこなうこ
とを決定しなければなりません。そして、20世紀の流れのなかで、暗黒時代が終わったあとの最初の世紀において、人間は文
明の墓場に立つか、心のなかで知性と霊性を統合させた人々の魂のなかでミカエル衝動のためにミカエルの戦いがなし遂げら
れる時代のはじまりに立つか、どちかなのです。(P217)
(関連ページ) 秘儀参入の道-ミカエル



アーリマンが本を書く

印刷術の一種の代用品が、古代の中国で高度に完成していました。上方にミカエルが統治し、下方ではアーリマンが対抗的な
支配をしていた当時、すでに印刷術があったのです。しかし、特別なことは何も起こりませんでした。その当時、アーリマンは力
強くなかったのです。アーリマンは、ミカエルを知性の統治に関する戦いに誘い込んで、消耗させることがまだできませんでし
た。アレキサンダー大王時代にアーリマンはふたたび誘惑を試みましたが、やはり失敗しました。

しかし、いま、アーリマン主義は近代の印刷術のなかで大きな意味を持ちました。著述はポピュラーなものになったのです。ある
人物が、すばらしく、輝かしい著述家になることができました。その人物については、魂の諸力の完全な均衡をもって理解しなけ
ればなりませんが、その正当な意味においては、彼の価値を認めなければなりません。その最初の試みについて、「アーリマン
が著述家として現れた」と、ミカエルの領域からいい渡されます。ミカエルのサークルのなかで、今日重要なことが起こっていま
す。アーリマンが著述家として現れるのです。第一次世界大戦の勃発に関していったように、人間がアーリマンに憑依されるだ
けでなく、アーリマン自身が人間の魂をとおして地上にみずからを告知するために、著述家として出現するのです。アーリマンが
輝かしい著述家であることは不思議ではありません。アーリマンは偉大な、包括的な、巨大な霊だからです。ただ、アーリマン
は地上における人類の進化にとってよき霊ではないだけです。アーリマンは人類の進化に戦いをいどむ霊なのです。自分自身
の領域においては、アーリマンは必要なだけでなく、慈善的な力なのです。世界の事象のある水準においては慈善的な存在
も、ほかの水準においては非常に有害なのです。アーリマンの仕事の特徴を示そうとするなら、その仕事はとくに非難すべきも
のであると仮定する必要はないのです。それどころか、その仕事を意識しているなら、アーリマンを賛美することができるので
す。しかし、アーリマンの性格を認識しなければなりません。

アーリマンは一人の人間をとおして、心を震撼させるような悲劇的な性格を持った最初の試みをしたことがある、とミカエルは教
えます。ニーチェの『反キリスト』、自叙伝『この人を見よ』、『力への意志』のなかの覚え書き、それらは近代の著作の輝かしい
一章ですが、しばしば悪魔的な内容を含んでいます。アーリマンが、印刷術をとおして自分の支配下に入ったものを使って、そ
れらの本を書いたのです。アーリマンはすでに著述家として現れ、仕事を続けようとしはじめています。書物に書かれていること
をどれも同様に受け取るのではなく、このことにこれから注意する必要があります。人間が書いた本が出版されていきます。しか
し、一人の人間がもっとも輝かしい著述家になるように訓練されていることを知っておく必要があります。アーリマンです。 人間
の手が本を書くでしょうが、アーリマンが著述家になるのです。かつて、福音史家が霊感を受けて、彼らに霊感を与える超感覚
的な存在についての本を書いたように、アーリマンの作品が人間によって書かれるのです。

それは、これからの人類のはるかな進化の歴史のなかで二様に存在します。ミカエルによって予定された魂たちに超感覚的な
学院で教えられたものを、可能なかぎり地上領域に広めてゆくように努力しなければなりません。人智学協会のなかでこの認識
を尊重し、これから受肉する人々に、二十世紀末までそのことを教えねばなりません。今日はじめてこれらのことを経験する人々
の多くが、ふたたび地上に下ります。そのうちに、アーリマンによって書かれたものが数多く地上に現れます。

人智学の課題の一つは、ミカエルの叡智を誠実に維持することであり、心に勇気を持ってミカエルの叡智に向かいあい、心にミ
カエルの剣を持ち、心にミカエルの叡智を流し込み、ミカエルの霊の剣が地上の知性を貫くのを見ることです。こうして、人智学
者ひとりひとりにミカエルの姿が現れます。人間の心のなかにミカエルが立ちます。ミカエルはアーリマン的な著作を足下に踏
みつけています。ドミニコ会時代には、上方にドミニコ会のスコラ学者が本を持って立ち、アベラールやアヴィセンナなどの異教
的な叡智を記した本を足で踏みつけている絵がよく描かれ、スコラ学と異教との戦いがあったところにはいたるところにこのよう
な絵が残っているのですが、このような外的な絵は必要ではありません。外的な絵ではなく、心にそのようなミカエルのイメージ
を持たなければならないのです。世界に入ってきて、地上で知性を把握するミカエルに対して忠実であり、著述家としてのアーリ
マンの二十世紀全体を通じての輝かしい活動に注意していなければなりません。

アーリマンは独特なところで本を書くでしょう。そして、アーリマンの弟子たちが育成されるでしょう。今日すでに意識下の魂が養
成されており、アーリマンの弟子たちは早く再受肉して、著述家としてふたたびアーリマンの道具になることができるでしょう。ア
ーリマンはあらゆる領域にわたって書きます。哲学、詩、演劇、叙事詩、医学、法学、社会学についてアーリマンは書きます。あ
らゆる領域に関してアーリマンは書くのです。

これが、人類が二十世紀に迎える状況です。今日まだ若い人は、どのようにアーリマンが著述家として現れてくるかを見ること
でしょう。あらゆる分野にわたる注意とミカエルの叡智への神聖な熱情が必要です。(P231-P235)