マルコ福音書講義




それは当時当たり前のことだった

彼ら(現代の自然科学者たち)は、マルコ福音書の六章までに書いてあることは当時は奇跡ではなかった、ということを知らない
のです。今日、なんらかの薬で人体の機能に影響を与えるのが奇跡ではないのと同じです。癩病患者に手を伸ばして、「清くな
れ」と言って治すのは、奇跡とは思われていませんでした。キリスト・イエスの本質全体が溢れ出て、薬になったのです。今日で
は人間のエーテル体と物質的身体の結び付きがまったく別様になっているので、もはや、そのようなことは起こりません。しかし
当時は、医者はそのように治療していたのです。キリスト・イエスが癩病患者を同情と按手によって治したのは、特に際立ったこ
とではありませんでした。それは当時当たり前のことだったのです。この章で強調すべきことは、まったく別のことです。そこに正
しく目を向けなくてはなりません。

当時、医者がどのように養成されたか、その方法に目を向けましょう。医者は密儀の学院に併設された学校で養成されました。
彼らは、超感覚的世界から手をとおして作用する力を得ました。当時は、病いを癒す医者は、超感覚的な力の媒体でもあったの
です。彼らは媒体であることをとおして、超感覚的な力を媒介しました。彼らは医療密議院での修練をとおして、媒介者になった
のです。そのような医者が患者に手を当てるときに流れ出たのは、彼らの力ではなく、超感覚的世界の力でした。彼らは超感覚
的な力の作用の通路でした。密儀の学院で秘儀に参入することによって、そうなったのです。

そのような心理的な経過をとおして癩病患者や熱病患者が癒されたのは、当時の人々にとって特に奇跡とは思われませんでし
た。重要なのは、癒されたことではありません。密儀の学院にいたことがないのに、そのように癒せる人物が現れたことが重要
なのです。かつては高次の世界から流れてきていた力を、心魂のなかに有する人物が現れたことが意味深いのです。その力が
個人的な力になったことが重要なのです。時は満ち、もはや人間は超感覚的な力の通路ではなくなった、という事実が示される
べきでした。

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた人々にも、そのような時が終わったことが明らかになりました。将来おこなわれるものは、
すべて人間の個我をとおしてなされなければならない、ということが明らかになりました。人間の内的な中心に入るべきものによ
って全てがなされなければならない、ということが明らかになったのです。ほかの者たちが超感覚的世界の存在たちの助けを借
りて、超感覚的世界の存在たちから下ってくる力によって行ったことを自分で行える者がいる、ということが明らかになりました。

治療の経過自体を特別なものだと思うと、聖書の意図からずれます。そのような治療がまだ行われていた古代の黄昏時には、
そのような治療の経過は特別なものではありませんでした。キリストは古代の黄昏時に、新しい力をもって治療したのです。そ
の力が今後、存在していくべきでした。

いまや、個我が問題であり、個我が協同しなくてはなりません。すべてが個体化されました。心魂をとおして身体に働きかける
ことができるという、当時は当たり前だったことが問題なのではありません。新しい時代が始まるとき、個我が個我に向き合うべ
きだ、ということが大事なのです。この事実が描かれているのです。かつては、精神的なものは高次の諸世界にあり、人間の上
に漂っていました。いまや、天の国々は近づいてきて、人間の心のなかに入るべきでした。それが大事なことです。そのような
世界観のために、外的な物質と内的な道徳が新たな方法で合流しました。(P57-P60


界史上、最大の決断

かつての人類の偉大な指導者は、秘儀参入者たちでした。神聖な密儀において、秘儀参入の最終段階まで導かれた人々で
す。秘儀において、死の扉に近づき、四大元素のなかに沈んで、三日間、自分の身体から離れました。三日間、彼らは超感覚
的世界に滞在し、それから目覚めました。そして、超感覚的世界について告げる者になりました。このような方法で、人類の偉
大な指導者・秘儀参入者になったのです。

ペテロは、「あなたはキリストです」と言います。「あなたは密儀を体験したのではない導師、宇宙からやってきて人類の導師に
なった人だ」ということです。秘儀参入において生じたことが、地上で歴史的に生じるべきだったのです。ペテロが語ったのは、
途方もないことでした。「それは大衆に告げてはならないことである。それは最も神聖な最古の掟によって、秘儀にとどまるべき
だ、とされてきたことである。この秘儀について語ってはならない」と、ペテロは言われます。

密儀の深みで行われてきたことが、ゴルゴタの秘儀によって世界史の舞台に出されることに、人類進化の意味があります。ゴ
ルゴタで起こったのは、三日のあいだ墓に横たえられたこと、復活がなされたことです。このことをとおして、密儀の深い暗闇の
なかで行われてきたことが、地上に出されたのです。「この密儀については沈黙しなければならない、という神聖な掟が破られ
るべき時が来た」ということです。密儀については沈黙する、という掟が設けられていました。しかし今や、密儀はゴルゴタの秘
儀によって公開されねばならないのです。「いままで人間の掟に従って沈黙が守られてきたことがらが、いま人々の眼前で、世
界史のなかで示されねばならない」という決意が、キリストの心魂のなかでなされます。世界史上、最大の決断です。キリストが
行った世界史的な熟慮の瞬間を考えてみましょう。「私は人類進化全体を眺める。人類の掟は、死と復活について、密議につい
て語ることを禁じている。私は秘儀を公開するために、神々から地上に送られた。私は人間たちが言うことに従わない。私は
神々が言うことに従う」という世界史的な熟慮です。

密儀を公開するという決意が、この瞬間になされました。人間の掟を守ろうとすることから発するためらいを、キリストは自分の心
魂から投げ捨てねばなりませんでした。「ためらいは、私から退け。いままで密儀の深みにあったものを全人類のまえに示そう。
私はそのように決断する」

自分をためらわせるものを退ける決断をしたとき、キリストは「私から去れ」と言ったのです。キリストは、自分が神から地上に遣
わされた目的を遂行することを、この瞬間、決心したのです。

この箇所には、世界史上、最大の独白がなされているのです。秘儀の公開についての神の独白という、地球進化のなかで行わ
れた最大の独白です。(P115-P116)


5つのパンと7つのパン

群衆に語るときは、キリスト・イエスは譬え・イメージで語りました。群衆は超感覚的なものをイマジネーション認識において見た
名残をまだ有していたからです。彼は群衆に対して、昔の霊視者が語ったように語らねばなりませんでした。旧約聖書の民族に
由来する弟子たちには、彼はソクラテス的に、通常の理性に従って説明しました。彼は弟子たちには、譬えを説明できたので
す。昔の霊視が消えたのちに、人類に通常のものとなった新しい感覚に向けて、彼は語ることができました。

エリヤの精神が集団心魂として十二使徒にやってきて、共通のオーラのように彼らを貫いたことによって、彼らは高次の意味で
明視的になることができました。彼らは個人では達成できないものを、十二使徒として集まると、エリヤ・ヨハネの精神に照らさ
れて、見ることができました。そのような者へと、キリストは彼らを教育したかったのです。

パンを増やすという話は、根本的に何を意味しているのでしょう。一度目は、5つのパンを5千人に分けて、残りが12の籠に一杯
になりました。二度目は、7つのパンを4千人に分けて、残りが7つの籠に一杯になりました。これは奇妙なことだ、と聖書解説者
は思いました。今日では解説者たちは、「人々は自分でパンを持っていた。彼らは列を作って並ばされたとき、自分のパンを出し
たのだ」と言います。これが、福音書に依拠しようとする人々の一致した見解です。

このように外面的に受け取ると、ものごとは外的な装飾、外的な儀式になりさがります。なぜ、このようなことが物語られている
のか、分かりません。もちろん、黒魔術のようなことを考えてはなりません。5つのパンや7つのパンから、人々が満腹するだけの
分量を本当に創り出すのは黒魔術です。しかし、黒魔術が行われたのではありません。人々がパンを持ってきていて、それを取
り出して食べたなどという、俗物好みのことが行われたのでもありません。特別のことが語られているのです。何が問題か、福
音書のなかに、はっきりと示唆されています。

「使徒たちはイエスのもとに集まり、彼らが行ったこと、彼らが教えたことをすべて彼に報告した。孤独な場所に退いて、しばら
く休みなさい≠ニ、彼は彼らに言った」(6章30-31節)

この発言に、私たちは注目すべきです。キリスト・イエスは、使徒たちを孤独な場所にやり、しばらく休ませました。人間が孤独
になったときに到る状態に彼らを置いたのです。そこで、彼らは何を見るのでしょう。いつもとは別の状態で、彼らは何を見るので
しょう。エリヤ・ヨハネの精神がやってくること、彼らは新しい明視に導かれます。それまで、キリストは彼らに譬えを解説しまし
た。いまやキリストは、彼らに新しい明視をもたらします。彼らは何を見るのでしょう。

包括的なイメージで、人類進化を見るのです。彼らは未来を見ます。キリスト衝動へと未来の人類が向かっていくのを、彼らは見
ます。二度にわたるパンの増加として語られているものを、弟子たちは精神において見たのです。それは明視的な行為でした。
他の明視的な行為と同様、慣れていないと、過ぎ去ります。ですから、弟子たちはこの行為を、長いあいだ理解しませんでし
た。

外的な感覚界のことがらから明視的な瞬間の再現へと物語は移っていきます。これはマルコ福音書において最も明瞭です。私
たちは、霊的探究の視点から把握するときにのみ、福音書を理解します。

ヨハネが首を刎ねられたあと、人々はキリスト衝動を自分に作用させます。キリスト衝動が世界のなかに存在しています。外的
なまなざしで見ると、キリストはあまり活動できなかった孤独な人物に見えます。現代的に修練した明視的なまなざしのなか
に、時間の流れが現れます。キリストは、当時パレスチナにいた者たちの下にだけ現れるのではありません。それ以降の人類
にも現れるのです。人類はみな彼のまわりに集まります。キリストは与えることのできるものを、何千何万もの人々に与えます。
十二使徒はキリストは、そのような存在と見たのです。当時から何千年間もキリストが活動するのを、彼らは見ます。彼は未来
に精神的な衝動を投げ入れました。未来の人々がやってくるのを、彼らは見ます。これが、彼らが精神において特別にキリストと
結びついた経過です。(P110-P112)


ゴルゴタの秘儀

ゴルゴタの秘儀とは何なのでしょう。それは、密儀の深みから、秘儀参入を世界史の舞台に取り出すことにほかなりません。も
ちろん、普通の秘儀参入とゴルゴタの秘儀のあいだには、大きな相違があります。つぎのような相違です。

さまざまな民族の密儀に参入した者は、ある意味で同一のことを体験しました。苦しみを受け、3日間の仮死状態に到って、精
神が身体から離れて神霊世界におもむいたあと、精神はふたたび身体のなかに戻りました。身体のなかに戻った精神は、神霊
世界で体験したことを思い出せました。秘儀参入者は、神霊世界の秘密を告げる使者として登場しました。精神がしばらくの間
物質的身体から離れて、死に到るのが秘儀参入でした。身体から離れて神霊世界に滞在したあと、物質的身体のなかに戻っ
てきて、神的な秘密の使者になるのが秘儀参入でした。入念な準備ののち、物質的身体という道具を用いずに3日半のあいだ
生きることができるように心魂の力が鍛えられたのちに、秘儀参入は遂行されました。3日半ののち、参入者は物質的身体に結
び付かねばなりませんでした。通常の生活から離れて高次世界に移ることによって、秘儀を体験したのです。古代の密儀とゴル
ゴタの秘儀は、内的本質においては異なっていますが、外的現象としては類似しています。キリストがナザレのイエスの身体の
なかに滞在しているあいだに行われた出来事においては、ナザレのイエスの物質的身体が実際に死にます。キリストの精神は
3日間、物質的身体の外に滞在し、物質的身体ではなく、凝縮したエーテル体なかに戻りました。福音書に書かれてように、弟
子たちが知覚できるほど、エーテル体は凝縮していました。それで、キリストはキリストはゴルゴタの出来事のあとも地上を歩む
ことができ、人々の目に映りました。密儀の深みで行われて、外的な目には隠されていた秘儀参入が、歴史上の出来事として
示されました。秘儀参入が、一度きりの出来事として、全人類に示されたのです。秘儀参入は密儀から取り出され、人々の眼
前でキリストによって成し遂げられたのです。こうして、古い世界が終わり、新しい世界が始まります。(P120-P121)


香油を300デナリオンで売ること

神秘学的な探究によって明らかにすれば、福音書はまことに明瞭な言語を語っています。福音書の個々の点で何が問題なの
か、何が重要なのかを人間が理解できるようになることが大事です。そうして初めて、比喩や物語の重要な点に到ります。福音
書の最も重要なことがらに対して、通常の神学あるいは哲学は、奇妙な観点から出発しています。普通は馬を馬車のまえに付
けますが、通常の神学・哲学は「馬の尻尾に馬勒を付ける」、つまり、あべこべにします。奇妙なことです。実際に、多くの解釈・
注釈において、本末転倒なことがなされています。何が問題なのか、気づいていないのです。

非常に意味深い箇所に注目しましょう。マルコ福音書の14章です。

「彼はベタニアで、癩病のシモンの家にいたとき、食卓に座っていると、一人の婦人が本物の高価なナルドの香油の入った雪花
石膏の瓶を持って、やってきた。瓶を壊して、彼の頭に注いだ。しかし、そこにいた人々の何人かは罵って、何のために、この
香油を浪費するのか。この香油を300デナリオン以上に売って、貧しい人々に与えることができたのに≠ニ語った。そして、彼ら
は彼女に、がみがみ言った。しかし、イエスは、こう語った。彼女のするままにしておけ。君たちは彼女を、なぜ苦しめるのか。
彼女は私によいことをしたのだ。貧しい人々は、いつも君たちのところにいる。君たちが望めば、いつでも善いことを行える。しか
し、私はいつも君たちとともにいるのではない。彼女はできるかぎりのことをしたのだ。彼女は埋葬に先立って、私の身体に香油
を塗ったのだ。本当に、私は君たち言う。世界中で福音が告げられるところでは、彼女の行為についても、彼女を記念して語ら
れるであろう=v(14章3〜9節)

変わった話だ、と思うのが普通です。正直な人なら、「香油を売るべきだ。香油を頭から注ぐ必要はない」と罵った者たちに同感
する、と言うことでしょう。たいていの人は、香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に金銭を与えるほうがよい、と思うでしょ
う。正直な人なら、キリストが「香油を売って得た300デナリオンを貧しい者たちに与えるよりも、彼女の好きなようにさせるほうが
賢明である」と言うのは無慈悲だと思うでしょう。「この物語に怯むべきでないなら、なにかが背後にあるにちがいない」と、思わ
れるにちがいありません。この箇所は、そっけなく書かれています。香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に金銭を与える
ほうがよいと思う人々は、ある人物と同様の考え方をしている、と福音書は言うのです。つぎのように、話は続きます。

「世界中で福音が告げられるところでは、彼女の行為についても、彼女を記念して語られるであろう=B十二使徒の一人、イ
スカリオテのユダは祭司長たちのところに行った。イエスを彼らに引き渡すためにである。それを聞くと、彼らは喜び、ユダに金銭
を与える約束をした。彼はイエスを引き渡す機会を探った」(14章9〜11節)

イスカリオテのユダが、香油を注いだことに特に憤慨したのです。香油を注ぐことに憤慨する人は、イスカリオテのユダの仲間な
のです。香油を注ぐことに憤慨する人たちは、主を銀貨30枚で売るイスカリオテのユダと同じだ、と注意しているのです。「香油を
300デナリオンで売ろうとする人たちは、このようだ」と、福音書は言おうとしているのです。ユダは金銭に執着しているからです。
福音書はうわべを飾りません。そのようなことをすると、客観的な正しい説明が妨げられるからです。

この箇所では、何が問題なのでしょう。「単に感覚存在を重視すべきではない。なによりも超感覚的世界を、人間は自分のなか
に取り入れるべきである。感覚存在においては意味を持たないものを重視することが大事だ」と、福音書は言おうとしているので
す。

キリスト・イエスが死ねば、婦人に香油を塗られた身体はもう意味がありません。しかし、感覚存在の彼方で価値と意味を持つも
ののために、なにかを行うべきなのです。自然な人間の意識が感覚存在において最も大きな価値を置くにちがいないものに関し
て、このように強調されるのです。

時々なにかを、精神に与えるために、感覚存在から取り去らねばなりません。個我は身体から離れたとき、精神のなかに進入し
ていきます。それを示すために、福音書はここで特別な例を選んでいるのです。地上存在にとって価値あるものではなく、個我
のなかに入っていって、個我から放射できるものを、福音書は重視しています。それがここで、特に力強く主張されています。で
すから、心が特に感覚存在に向かっている裏切者のイスカリオテのユダに結び付けて語られているのです。ユダは、福音書が
俗物だと言っている者たちの下に混ざっています。ユダには、感覚存在のなかで意味を持つものが問題なのです。感覚存在を
越えるものよりも、300デナリオン得るほうが意味があると思う者たちと同類なのです。

いたるところで、枝葉のことではなく、主要なことが示唆されねばなりません。精神的なものの価値が認識されるとき、いたると
ころで福音書は認識されるでしょう。精神的なものが正しく認識されるところでは、この例は適切なものと認識されるでしょう。で
すから、個我にとって超感覚的なものが価値があると強調されるところでは、香油の浪費が意味のあるものとして語られます。
(P144-P146)