人智学・心智学・霊智学




人間は、進化の過程で、小さな魚に似ていたことは一度もなかった

私たちは一体、外界の何について判断するのでしょうか。あらかじめ自分の感覚に提示されている外界の事物についてしか、判
断できません。感覚で捉えられないものについて、感覚そのものは、何も決定できません。人が自分でこれだけは真実であると
思えるものとは、一体何でしょうか。人間の場合、物質界に存在するもの、感覚が認めることのできるものだけが真実となって現
れるのです。感覚で直接知覚するものでなければ、物質界では何も判断できません。なぜなら、知性だけでは物質界について
の確信が持てず、いろいろな誤謬に陥らざるをえないからです。

この点は、例をあげた方がいいかもしれません。ここに二つの教えがあるとします。ひとつの教えは神智学研究によって得られ
た教えです。アトランティス期、レムリア期などを通って、月期、太陽期、土星期に到るまでの過去の諸時期において、人間がど
んな存在形態を経てきたのかの教えです。その教えは神智学研究によって得られました。そして私たちは、この人類進化論を
本当に自分のものとして、外界の事物に即してそれを深めていけば、感覚の提供する事物の世界がすばらしく理解できるもの
になるのです。そうすれば、霊界の諸事実をふまえて打ち立てた神智学の説が外界の事実によってはっきりと裏書きされている
ことをますます確信できるようになるのです。

ところがその一方で、その対極とも言える別の外的、感覚的な進化論が体系化されています。昨日述べたように、そこでは特に
ひとつの重要な法則が提示されています。それは固体発生は系統発生の反復であるという原則です。人間は胎児において諸
動物の形姿を想起させる諸形態を通過するという事実をもとにした原則です。胎児は、ある段階では、魚を想起させます。その
ように動物界のさまざまな形態を繰り返す、というのです。私たちがよく知っているように、この進化論はこうして事実世界からと
び出してしまい、人類は太古の時代に、これらの動物形態をとってきたのであり、胎児はそれを繰り返しているのだ、と主張する
のです。しかし、もしこの主張が事実だったとすれば、こう言わざるをえません。----「この観察が今まで神々の手で念入りに封
印されてきたのは、人類にとって幸せなことだった。」なぜなら、かつて人類は動物の姿をしていた、という説が提示されたほぼ
同じ時期に----こういう事情は常に重なり合うものです----今、神智学がその間違いを正してくれたのですから。

人類が物質界に現れる前の人間(胎児)の形姿は、神々の手で覆われており、それを観察することはできませんでした。もしもも
っと以前の胎児の姿を観察したとしたら、更に一層間違った考え方をしてしまったことでしょう。

事実はもちろん正しいのです。なぜなら、感覚によって観察されるのですから。ただ、それを判断しようとしますと、悟性魂の力
が必要になります。しかし悟性魂は、感覚の及ばないところにまでは力を行使できません。ですから、内部に真理能力をもって
いなければ、誤謬に陥ってしまいます。今の例は、悟性魂による判断が、どれほど誤謬に陥りやすいかを示す顕著な例なので
す。

人間が胎児の或る段階で魚に似てくるという事実は、何を示しているのでしょうか。この事実が示しているのは、人間が魚の本
性を利用できず、人間の姿をとる前に、その本性を外に押し出さなければならなかったということなのです。そしてその次の段階
の胎児の形姿は、ふたたび外に押し出さなければならなかった形姿なのです。人間の形姿にふさわしくないので、その形姿を
外に押し出さなければならなかったのです。そのようにして人間は、自分のものでないすべての動物形態を外に押し出さなけれ
ばなりませんでした。

もしも人間が地上で、実際にそういう動物形態をとって現れていたとしたら、人間になることはできなくなったでしょう。人間は、ま
さにその形態を自分の中から排出して、人間になれるように努めなければなりませんでした。

皆さん、もし皆さんがこの考え方に従って下さるなら、正しい判断に到るでしょう。胎児が小さな魚のように見える、という事実は
何を示しているのでしょうか。人間の進化の過程で、小さな魚に似ていたことは一度もなかった、ということを示しているのです。
だから進化の途上で魚の形態を外に押し出したのです。その形態は利用できなかったのです。そういう形態に似た姿をとること
は許されなかったのです。

どうぞ近代科学が胎児の諸形姿として示している魚その他の一連の形姿を見てください。そういう形姿は何を示しているのでし
ょうか。それらの形姿はすべて、太古の人間ではなかった姿を、人間がまさに自分の中から外に押し出さなければならなかった
姿を示しているのです。それらすべては、人間とは縁のない姿を示しているのです。太古の人間は、決してそういう姿をしていな
かったのです。

胎生学は、人間が通り抜けて来た姿ではなく、人間が外に排出してきた姿を示しているのです。(P92-P95)