エドガー・ケイシー『わが信ずること』
テレパシー

本日の問題は、心理的テレパシーと読心術とであります。私が、これまで教えられてきたところによりますと、この種の現象はすべて潜在意識によって、説明できるものとされています。先ず私は、この方面についての私自身の体験の一つをお話ししてみたいと思いますが、その実験というか体験というか、それは、二度と繰り返す気持ちはありません。この問題をとり上げる理由と言いますのは、心理的テレパシーとか、読心術というものは、使ってよいものか、使うべきでないものかということについて、私の考えを述べたいからであります。

数年前、私は写真スタディオを経営していました。その時、私のスタディオで働いていた若い婦人がいました。彼女は元々音楽家であり、音楽家の教育を受けてきましたが、ある事情から彼女は、写真と私を通して現れてきていた現象に興味を持つようになりました。われわれは、この現象のもついろいろな側面について、大いに議論しました。ある時、私は彼女に向かって「私は、他人を私のところに無理にでも来させて見せる」と言ったところ、彼女は「それは無理でしょう」と言いましたが、私は「その証拠を見せてあげよう」と反論しました。

このようなやりとりがあったのは、私がこの方面ことを、ある期間考え続けており、私どもが議論したこの偉大な力は、潜在意識であるということを研究し、それとなく感じていた直後のことでありました。集中によって----これは、肉体的顕在意識を放棄することを意味する----自らの中に、心理的映像を保持し、他人があることをするのを脳裏に描き、彼に精神的にあることをなさしめ、遂に実際にそうさせることができると、私は感じたのであります。

若い婦人は「いや驚きました。あなたのおっしゃることは、大抵信じますが、これだけは信じられない。本当なら、この私の目の前で、確かに見せて下さい!」

私は「ああ、結構です。私が、今言ったようなことをできないと思う人二人を言ってごらんなさい」と私は話しました。

彼女は「はい、私の弟はここに来させることができないと思いますよ。そしてBさんも来させることができません。というのは彼は、あなたを大そう嫌っていますから」と言いました。

私は彼女に「明日、12時前に弟さんがここに来るだけでなく、私になにかを頼むことになるでしょう。そして、その翌日の午後2時前にはBさんもここに来るでしょう」と言いました。

彼女は、頭を横に振って「私にはそんなことは信じられないことです」と言いました。

さて、われわれの居場所が整えられ、二階から鏡をのぞき込み、下の道路でなにが起こっているかを見られるようになっていました。翌日の10時、私が部屋に入り、椅子に腰かけました。若い婦人が、「あのね、あなたは私の弟になにかしようとしていますか?」と言いました。私はその少年のことを考えながら約30分座って瞑想していました。しかし、彼の姉が私のしている仕事には我慢ができないと弟がいっているので、弟が私になにかしてほしいことがあるとは、言ってみたものの、それは言い過ぎではないかと、不安になってきました。

さて、思いを集中して30分位たってから私は、下の道を通りすぎ、すぐ引き返し、私のスタディオの階段を上ろうとしている弟が見えました。彼は数分、そこに立っていましたが、階段を見上げたかと思うと、反対に降りはじめました。また数分後、引き返して、今度は二階まで上がってきました。

姉は、驚いて彼を見つめ「ここになにしに来たの?」と言いました。彼は、テーブルの端に坐り、手で帽子を回しながら「いや、私にはわけがわからないのだけれど、実は昨夜、買物中ちょっとした事故があったので、姉さんが話していたケイシーのことを思い出し、もしかして彼が私を助けてくれやしないかと思ったんだよ」と答えました。姉は色を失うほど驚きました。

さらにその翌日の11時に、同じ椅子に腰かけていると、その婦人が「あなたは私の弟を動かしたのだから、Bさんも動かすことができると思うわ」と言いました。私は彼女に、彼は私を嫌っているから、彼が来ても私はそこにいないだろうし、彼は何の用でここへ来たのかわからないだろうと言ってあったのです。後で彼女の言うのには、彼は12時半頃来ましたが、そのとき私は出かけた後だったと教えてくれました。彼女は、その男に、なにか私に御用ですかと訊ねましたが、彼は「いや、ここで何をしていいのかわからない。ただやってきただけだ」と言い、そして、歩き出したのです。

さて、それは心理テレパシー、心の力でありますが、自分を他人に押しつけることになると思います。それは危険なことです。それは黒い術ともいうべきものです。なにか確たる目的もないのに、そんなことをする権利は私どもにはありません。こういう方法で、自分の子供たちを訓練するのは、時としてよいかも知れません。しかし、それでさえも、危険なことです。わが情報(リーディング)が言っているように、自分の意志に従わせるように他人を強制する人は、暴君だからです。神は、その意志を、われわれに強制するようなことはなさいません。われわれは、ただ自分の方から神と一つになるか、それに反対するかです。しかし、いずれを選ぶかは自分自身が選択することになります。

そこで、心理テレパシーが、他人に自分の意志を無理強いするために使われてはならないとすれば、一体それは、人生でどんな役に立つというのでしょうか。それが、問題です。非常に良いものは、また非常に危険です。もし良いものなら、誤用や悪用のおそれがあるということ一面だけを言うことはできません。それでは、読心術やテレパシーを建設的に使う方法はないものでしょうか。

私の言える最善の方式はこれです。あなたが自分でしないことを、他人にやらせるようなことをしてはなりません。神は決してこのようなことをしませんでした。これは決してしてはなりません。この頃、精神的な力を身につけている人たちのことをよく聞くことがあります。

「強い人になれ、そして強力な心で、他人を支配しなさい」と広告文が書かれてあります。しかし、われわれが他人を、われわれの命令を実行するよう支配することができるよう、腐心するなどということは危険なことです。人が、神の命令を実行するよう、人のために心を砕くならば、また人前で、光明や真理を知るよう心理的に説得するとすれば、大いに状況は変わってきます。あなたは他人のために、一度でも祈ったことがありますか。また一度でも他人のために、その人生が好転するようひざまづいて、神に対し祈りを捧げたことがありますか。それは正しく精神力を使うことになります。変化せしめる力は、聖なる源泉からくるものでなければならないからです。

スタディオでの最初の経験以来、精神力を人に実演してみせる同種類のことを幾度かやってみました。しかし、これらの問題をいろいろと研究しているうちに、もうこんなことは二度とやるまいと決心しました。自分の心の力で、他人を支配したいと思う心は、やれば誰でもできる----しかし、要警戒である----ものです。他人を支配することは、あなたを破壊することになるからです。それはまさにあなたをフランケンシュタインにするでしょう。

アトランティスの歴史を少し勉強した人ならご存じだと思いますが、当時は、精神力というものが非常に高度に発達していました。多くの人が精神を集中して、単なる思考の力で物質を生み出すことができました。しかし、彼らがしたように利己的にこういう力を使うことは、結局は不幸なことになります。現在、世の中の最大の罪は、自己中心であり、他人の意志を支配することです。

他人に彼ら自身の生活を送らせようとする人は少ない。われわれは、人生の暮らし方を人に話したがります。われわれは、自分の行き方を他人に強制し、自分が物事を見るように他人も見るようにさせます。多くの奥さん方は、その夫にしてもらいたいことを話したいと思うし、亭主族の多くは、できることとできないことを妻たちに話しておこうとします。しかし他人は、あなたのために神に責任をとるということを一度でも考えなかったことがありますが。あなた自身の道をまっすぐ進むことこそ、あなたの為すべきことであり、誰か他の人の道を行くことではありません。直接に神に至ることは、まっすぐではあるが、狭い道です。そして、自分自身の行き方でそこに至ることができるのであり、他人を支配しようとすることによってではありません。

心の力というものは、古代アトランティス時代に存在したように、まだ存在しています。しかし、その力を利己的に使ったとき、アトランティス人に何が起こったでしょうか。破滅です。われわれはみなこの精神力を持っています。他人を自分の意志に従わせるよう強制することに使うため、自分を訓練することはできます。しかし、それをする道徳的権利はないはずです。われわれは、他人に自分自身の個人的経験を語る権利はありますが、それを実行するかどうかきめるのは、その人のものです。彼らの意志をまげてまで、自分の意見に従わせる権利は、誰にもありません。もし、わが内なる力を創造主と神に捧げるなら、われわれは、力を正しく使っていることになります。しかし、その力を自らの利己的な利害のために使っているとしたら、その力をやたらに濫費することになるし、破滅の息子とでもいうものに成り果てるのです。(P83-P90)




スウェデンボルグの霊界からの手記
死の状態

----なんとはなしに背中に人の気配のようなものを感じた。なにかに見つめられているような気がしたので、後をふり返って見たが、そこにはなにもなかった。ただ、その部分の空間にはいつもの空間とは違ったなにかがあるような気がして、しばらくその空間を見つめていた。

このような経験は誰にでもあるはずだ。この経験は、あまりに淡いため人びとの注意や恐怖を呼び起こすことがないが、これは、あなたの背後に、霊や霊界、死後世界が、暗い闇のようにひっそりと忍び寄る姿をのぞかせる瞬間なのだ。そして、これを感じた一瞬、あなたも瞬間的に死んで霊界の戸口をかい間見たのである。(P21)


精霊界

この世の人間が死んで、まず第一にその霊がいく場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、いったん精霊となって精霊界に入ったのち、ここをでて霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのである。(P45)


一瞬の死

精霊界には、一見しただけでそれとわかる、ほかの一般の精霊とは様子の違った精霊がしばしば現れる。このような精霊は、すべて下を向いて黙って頼りなげに精霊界の中を徘徊しており、自分がどこにいるのかも気づかず、またほかの精霊のことも、精霊界のものごとにも気がつかない様子である。ちょうど人が放心状態でふらふら歩き回っているときの様子と同じだと思ってよい。

このような精霊は、ほかの精霊が声をかけるとすぐにふっと消えてしまう。人間界にときどき現れる幽霊のようなものだが、違う点は人間界の幽霊のように特定の人以外には見えないといったようなことはなく、精霊界のどの精霊にも見えることである。

このような精霊は、じつは本当の精霊ではなくて、しいて名づけるとすれば仮の精霊ともいえよう。

精霊界に同時にこのような精霊がふたり以上現れ、その者のあいだに顔つきなどの似たところがあったとすれば、これは間違いなく親子、兄弟といった間柄の者だ。そして、その一方は現在死にかかっているとか死んだ直後の者であり、一方は、この者から世間でいう死の知らせを受けとった者なのである。

死にかかっている者は、精霊と人間の境目を行ったり来たりしつつ次第に死にいたる。この場合に、精霊になった瞬間に彼は精霊界にふっと顔をだす。そして、このとき彼は死の知らせを受ける相手方の人間の霊にも、霊の感応によって一瞬の死を経験させて精霊界へ呼び、そこで死の知らせといった通知≠渡すのだ。死の知らせは、人びとによく知られたものであるが、それはその知らせを受けとるほうも一瞬の死を経験することによってできるのだ、と私はすでにこの手記の最初のほうで述べた。だが、もっと詳しくいえば、このように両者がともに精霊界に一瞬入ることによって精霊界の中で、その通知はなされているのである。

このようなふたりの精霊のうち一方は、そのあといくばくもなく、もう一度今度は本当の精霊となって精霊界にやってくる。だが一方は、精霊界から姿を消したまま再びやってくることはない。つまり、後者は人間に帰っているからである。(P193-P195)

現代の人びとに、それもごく限られた人にだけだが、直接的な霊との交流が可能なのは、まだ本当の霊にはなっていない精霊との対話だけである。(P201)




続スウェデンボルグの霊界からの手記
唯物論

世間の人々の中には、初めからあの世なんて存在しない、世界とはこの世だけだと考えている人も少なくないのは私も知っている。(P26)


霊の出現の合図

私は悪霊がやってくるときには体に強烈なふるえが起き、そのためにベッドから転げ落ちたことが何度もある。そして、そのように霊がやってくるときは私の心臓、あるときは肺、口、目、手足などにやってくる霊によって、体の違った部分にさまざまな反応が起きたものである。

病気の中には霊がからんで起こす病気も少なくない。これも霊が肉体に影響を与えるからだが、これらの病気の原因が霊だということは、霊を患者から去らせてみるとすぐに病気が治るのでよくわかる。私自身は病気とは無縁の生涯を送ってきた。しかし、霊の影響で吐き気とか発熱とかいろいろな症状を起こしたことは何度もある。ひとつだけ面白い例でこんなのもあった。何年も前のことだが、私は霊の影響でひどい吐き気に見舞われ、ものが食べられずにこれでは命も危うくなるのではないかとさえ思ったほどであった。

私はこのときひどく嫌な臭いで苦しめられ吐き気が続いたが、やがてその悪臭の原因が霊にあるのに気づいた。問題の霊が見えてきたからだ。霊は何人もいたが、彼らと話してみてわかったのは、彼らはみんな人間だったときに仕事もろくにせず、うまい物を食べることだけを楽しみにしていた者たちだったということである。それで死んでからは悪臭を放つ霊になったのであった。

ある霊は人間の頭に、ほかの霊は足にといったように、霊によって違う部分に影響を与えてくる理由は実は単純に理解できる。これは一言でいうと霊界の構造自体が比喩的にいえば人体と似た構造になっているからだ。

霊界はいろいろなレベルの国や団体によって構成されていることや、それぞれの団体が人間に対して霊を送ってくることはもう述べた。そして、これらレベルの違う霊界の団体は、最上の国の団体は人間の頭脳に、最下等の団体は人間の足にそれぞれ照応しているのだ。そこでそれぞれの団体が送ってくる霊が、人体のうちのそれぞれに照応した部分に影響を与えてくるものなのだ。(P52-P53)

まだ「死の技術」の初期のころに、私は日記にこんなことを書いている。
「悪霊がいかにしつこいかは、ここ数日の体験でよくわかった。彼らは、できればいつでも人間にまとわりついていたがる。また、彼らは体のあちこちに痛みも起こす。脚にやってきたり、頭にやってきたりいろいろだが、ここ数日は脚をやられ、ほとんど歩けない状態が続いた。彼らと話している間は多くの場合、体のどこかが痛くなる。しかし、その話の途中では、痛みは強くなったり、逆にやわらいだりすることもある。そして、また、体のある部分の痛みが突然ほかの部分に変わったりもする。彼らはいろいろなところに痛みをもたらすので、書ききれないくらいだ」

悪霊は、悪臭をもたらすこともある。私の日記にはこんなことを書いてあるのもある。
「なんだか、水のよどんだ池か死体のような嫌な臭いが起きていた。夜、眠っていたときのことで、これは悪霊が『天の理』の真実をくもらせにやってきたせいに違いない」(P190)


霊が人間に与える最も大きい影響力

霊が人間に与える影響のうちで世間の人々には一番わかりにくく、もっとも影響としては大きいのは、彼らが人間の考えに影響を与え人間の考えを支配するという現象である。これはもっとも重要な問題である。だが、これはもっとも気づかれにくい。

多くの場合、人間にもどりたがっている霊は人間の体を占領して離れようとしない。そして、そういうふうに占領したことで自分は人間にもどったものと思っているものである。(P55)

しかし、この点で興味があるのは霊にも自分と人間が区別できない場合が多いということだろう。人間に自分と霊が区別しにくいように霊にも自分と人間が区別しにくいのだ。(P57)

霊に自分と人間が区別できにくいという現象は死んで間もない霊の場合でなくともいくらでも起きる。(P58)

つまり彼らはいつも相手の人間には気づかれずに誰かと一緒にいて、その人間を自分だと思っている。(P59)

霊たちはたくさんの者が集まってひとりの人間の考えに影響を与えたりすることもある。(P61)

私は「人間の考えなんて自由自在にこっちの思うままに左右できる。人間の頭脳を占領するのなどはたやすい」という霊にもたくさん合っている。ではなぜ霊にはそんなことが可能なのか? それは一言でいえば霊にはそんな能力があるからだ。彼らは人間に夢を起こし、その人間がまったく想像もできない光景を表象という能力によってその人間に見せることもできる。霊は人間の考えを支配する能力を持っているからである。(P64)

霊と霊の間でもこんなことが起きているが、これはそのまま霊媒現象や憑依現象と同じである。(P65)

霊の場合は多くの霊がそのことに気づいている。「自分は声を出して話しているだけのように感じる」とか「頭の中にほかの霊がいるみたいだ」と告白する霊にはいくらでも会った。彼らはそんなとき「自分は自分でも考えていないことを話していることがよくある。考えはほかの霊の考えで、自分の口がその霊によって支配されているのだ」というのだった。つまり多くの霊は自分の考えと他の霊の考えを区別できているのであった。(P66)

世間でしばしば動機の理解できない犯罪とか理由のわからない自殺などがある。また霊に操られて気が狂う例だってある。こういう不幸の裏側には実はいまのような霊からの影響がストレートにからんでいることが少なくない。私が霊とのつき合いは多くの場合危険のほうが大きい、気が狂ってしまうことが多いと警告してきたのもこういう理由からにほかならない。(P65)

彼らが与える影響にはいい影響もあれば悪い影響もある。一口に霊の与える影響といってもさまざまなものがあるのは、ひとつには彼が善霊か悪霊か、霊界のどの団体に属しているかといったことによる。しかし、他方では彼が死後のどの状態にいるかによっても違ってくるためだ。

前章で私は自分の死さえまだ自覚していなかったスウェーデン国王の例を上げたが、このときの国王はまだ人間にもっとも近い第一状態にいた。そして、このような状態にいる霊は人間にもっとも近いだけに人間にもっとも強い影響を与える。

第一状態から第三状態までの変化に要する時間は霊によって相違し、数カ月の者もあれば数年かかる者もある。中には数十年も第一状態に止まっている霊もあり、こういう霊は仏教的ないい方でいえば成仏できない霊である。世間には数十年も前に死んだ者の霊が幽霊になって出没したり、そのほかさまざまな気味悪い現象を起こしたり、いわゆるたたり≠もたらしたりといった現象がよくある。そして、これは誰でももっともよく知っている現象である。これもその霊が人間に強い影響を与える第一状態にずっと止まっていることから起きる現象にほかならない。

そして世間の人々は、せいぜいこういう現象だけしか知らないために、霊とはこわい恐怖のドラマを演出するものといった受け取り方をしている。

もちろん、この受け取り方がすべて間違っているわけではない。しかし、それはあくまでもこのことの真相のごく一部しか知らないものだということはもういわないでもわかるに違いない。なぜなら霊の多くは第二、第三状態へという変化をとげて本物の霊になっていくものだからだ。(P69-P70)


悪霊と動物

古代の物語を調べてみると、悪霊は多くの場合動物として描かれている。こういう物語をいまの人々はイソップ物語のような単なる寓意譚にしか思わない。だが実は、ここにはちゃんと古代の人々が知っていた霊界的な真実がこめられている。動物が霊的なものを持たない外面だけの存在だとさっきいった。そして、実は悪霊もそんな外面だけの存在である。だから古代の人々は、このような観点から悪霊を動物として描いたのであって、これは単なる寓意ではない。ここには彼らが知っていた意味の裏づけがちゃんとあったのだ。だが現在の人々は、このような背景の霊的事実を知る能力を失ってしまっている。


悪霊

悪霊の本質は一言でいえば、さまざまな不幸を人間にもたらして、人間を破壊することにある。そして、この世にいろいろなタイプの悪人がいるのと同様に悪霊にもいろいろな悪霊がいる。しかし、中でももっとも凶悪で大きな不幸や災難、苦しみを人間に与えるのは復仇の悪霊というべきタイプの悪霊である。

彼らに見舞われた人間は、不幸のどん底に落とされる。彼らは、さまざまな手をつかって復仇の喜び≠果たすが、対象にした人間をひどい病気にしてその身体を破壊するぐらいでは満足しない。その人間の心まで狂わせて、人間に愚行や悪行を行わせる。その結果、狙われた人間は精神まで狂わされ、世間の非難を浴び、世の中から社会的に葬られるようなことにもなる。「このぐらいのことまでやったときに、最高に愉快なのさ」と私に公言した悪霊もいる。(P191-P192)

悪霊の特徴は、さまざまなテクニックをつかうことである。悪霊がやってくるときには、地獄の光景とでもいうべき恐ろしいヴィジョンが、われわれの目にも見えてきたりすることも多い。しかし、これは比較的単純な悪霊の場合で、大ていの悪霊はもう少し悪知恵があり、逆に美しいヴィジョンを見せて人間を誘う。(P193)

悪霊はこのほかにも、恐怖のヴィジョンなども自在につくり出す。恐怖におののかせておいたあとで、自分の思うとおりに人間を操るためだ。

たとえば夜、寝室で寝ているときに窓の外などに腕が一本ニューッとでてきたり、人間には似ているが人間ではなく、また、この世のものとはとても思えないといったような顔がのぞいてじっと見詰めていたりしたら、人はどんな気持ちになるだろうか? おそらく、ただの恐怖とは比べものにならない、説明のできない恐怖にとらわれるに違いない。恐怖の演出者ともいうべき悪霊は、このような恐怖のヴィジョンを自在につくりだして人間に見せる。(P195-P196)


彷徨霊(地縛霊)

ここで彷徨霊と悪霊の違いについて簡単にふれておく。彷徨霊は前にも腰の落ち着かない霊≠ニして紹介した霊のようなものだと思えばいい。だから、彼らはけっして悪霊ではない。だが、実際には多くの場合、世間では悪霊と同じように受け取られたりしていることも多い。これは悪霊も彷徨霊も善霊に比べ外面的要素(つまり人間だったときの要素)が強く残っていて、そのために善霊よりも人間に目にみえやすい形で接触してくることが多いためである。

彷徨霊は地縛霊といった呼び方で呼ばれていることが多いが、これも彼らには外面的な要素が強く残っていることを示している。彼らが悪霊とはっきり違うのは、与える影響が悪霊のようなものでないこと、また、悪霊は「天の声」を説いて説得しようとしてもまったくムダなのに対し、彷徨霊はちゃんと説得ができることである。(P216)