天地の未来






文化期

世界進化・地球進化は、ポスト・アトランティス時代においてさまざまな文化期を経過していくということを、私たちは常に強調し
てきました。それらの文化期は、古代インド文化期、ペルシア文化期、エジプト・カルディア文化期、ギリシア・ラテン文化期、そ
して現在の私たちの文化期です。私たちの文化期のあとに、第六文化期・第七文化期が続くことに、私たちは注意を促してきま
した。

私たちは、これらの文化期を図式的に並べることで満足してはなりません。個々の文化期の特徴を述べようと試みなければなり
ません。こうして、私たち自身の時代、現在のポスト・アトランティス第五文化期のなかにある移行衝動を理解しよう、と私たちは
試みました。私たちがそのように各文化期の性格を描写するのは、図式的なものを意図してのことではありません。

たとえば、ある文化期の特徴が全地球に広まる、とは言えません。その特徴は一定の場所に現れ、ほかの場所・地域は取り残
されます。絶対に残留する必要があるわけではありませんが、それらの地域は古い力を保持して残留し、その古い力をのちに、
進歩していく別の文化期に結び付けるのです。

精神文化を取り扱うとき、ヨーロッパ民族とアジア民族の深い差異が目につかないでしょうか。肌の色に結び付いた差異に気づ
かないでしょうか。ヨーロッパ的・アメリカ的な本質とアジア的な本質を見るとき、アジア民族は過去の地球期の文化衝動を保持
し、欧米民族はその文化衝動を乗り越えていった、という差異に私たちは注目しなければなりません。完全に健康ではない心
魂のいとなみに取り囲まれときにのみ、オリエント人類が古代から保持したオリエントの神秘主義は強い印象を与えることがで
きます。


古代には、人々は低時の透視力をもって生きる必要がありました。そのような不健康な心魂生活がヨーロッパを捕らえました。
霊界への道をアジアのヨーガその他をとおして学ばねばならない、と人々は思いました。この傾向は、不健康な心魂生活を証明
するものにほかなりません。

ポスト・アトランティス第五文化期の体験の上に、精神生活・精神認識のなかに健康な心魂のいとなみを築かねばなりません。
興味深いものではあっても、ヨーロッパ人には合わない時代への逆行をもたらすものの上に健康な心魂の営みは築かれませ
ん。

しかし、地球進化は続き、つぎの時代がやってくるでしょう。その時代には、古くなった力が進歩した力と結び付かねばなりませ
ん。古い力は、進歩した力と結び付くことができるように、どこかにとどまっていなくてはなりません。

第五文化期に第六文化期が続きます。理論的・学問的な確信から生まれた抽象的な思考は、「第六文化期のほうが第五文化
期よりも未来の文化なのだから、第六文化期を第五文化期より高く評価する」と言うことでしょう。しかし私たちは、上昇の時代と
下降の時代があるということを明らかにすべきです。ポスト・アトランティス時代において、第五文化期に続く第六文化期は下降
期に属するということを、私たちは明らかにすべきです。ポスト・アトランティス第五文化期に発展するものは、第七文化期の次に
くる地球時代の萌芽である、ということを明らかにすべきです。第六文化期のほうが完全で、第五文化期は不完全だとするよう
な抽象的・理論的な考察ではなく、このように生きいきと考察しなければなりません。(P131-P134)


白人と有色人種

アトランティス時代の第四期に、現在の萌芽が植え付けられました。そして、いまのポスト・アトランティス時代第五文化期に、つ
ぎの時代の萌芽が植え付けられます。この第五文化期のなかで特に発展しなければならない特色は何でしょう。それはキリス
トのゴルゴタの丘での秘儀をとおして現れた特色、すなわち精神的衝動が物質的・人間的なもののなかにまで降り、霊が肉を
つかむことです。それは、まだ完了していません。いつか精神科学が大きな地上的土台を得て、多くの人々が精神科学を生活
のなかで表現するときに、精神的衝動は物質的・人間的なもののなかにまで下ります。手の動きや指の動きそれぞれ、つまり
日常的な行為のなかに精神が表現されるときに、そのようなことが起こります。


霊的衝動を物質的・人間的なもののなかへと下らせるために、キリストが人体のなかで肉になったのです。この下降、肉に霊を
しみ込ませることが、白人の使命の特徴です。霊が物質界に降ろうとするとき、精神が皮膚に作用するので白い肌になるので
す。

物質的身体が精神の外皮になることが、いままでの四つの文化期をとおして準備された五文化期の課題です。精神を肉体のな
か、日常のなかにもたらす文化衝動を築くことが、私たちの課題でなくてはなりません。

私たちがこれを完全に認識すると、精神がまだ肉体のなかに入っていない民族、精神が進化の途中でとどまっている民族、精
神がデーモン的な性格を受け取って、肉体を完全には貫いていない民族においては、精神と肉体を完全には共鳴させない先祖
返り的な力があるために白い肌の色が現れない、ということが私たちに明らかになります。精神は現在、肉体のなかに下るとい
う課題を持っているのです。

ポスト・アトランティス時代の第六文化期における課題は、精神を自分のなかではなく、周囲に漂うものとして認識すること、精神
を元素界のなかで認識することです。第六文化期の課題は、物質的周囲における精神認識を用意することです。それは、精神
を純粋に元素的な生命において認識する古い先祖返り的な力が蓄えられていないと、達成困難になります。

しかし、激しい戦いが生じるでしょう。白人は、精神をますます深く自らの存在のなかに受け取る途上にいます。黄色人種は、精
神が身体から離れていた時代、精神が人体の外に探求された時代を保っています。そのため、白人がさまざまな地域の有色人
種と激しく戦うことで、第五文化期から第六文化期への移行がなされます。白人と有色人種とのあいだでなされるこの戦いに先
行するものが、白人と有色人種とのあいだの大きな戦いの決着がつくまで歴史を動かしていくでしょう。未来の出来事は、先行
する出来事のなかに幾重にも反映しています。私たちがさまざまな考察をとおして身につけたものを精神科学的な感覚で見る
と、私たちは未来に生じる必然的なもののまえに立ちます。(P143-P136)


二つの人種

一方には、精神を肉体のなかに導き入れて、精神が物質生活における個々のことがらすべてを貫くようにすることを使命とする
人類がいます。他方には、ある意味で下降的な進化を引き受ける人類がいます。本当に身体が精神に貫かれることによって、
地球から消え去ることのない生きいきとした文化衝動が出現します。

それ以外の方法はありません。あとに続く第六文化期・第七文化期は、精神的に第五文化期の創造物によって生き、第五文化
期の創造物を自分のなかに受け取らねばんならないからです。第五文化期の課題は、外的な観念論的生活を精神的な生活へ
と深めることです。

いまは観念論に征服されている精神生活が生き延びて、のちに受け入れられねばなりません。東洋では、人々は自らの精神
生活を生産的に生み出す力を持たず、生じたものを自分のなかに受け取るだけです。独自の文化衝動を自らのうちに担う現在
の人類から、第五文化を歴史的に継承する精神文化が形成され、この文化をのちの文化が摂取するというように、歴史は経過
するにちがいありません。

先入見なしに、この二つの人類の流れの差異を客観的に明らかにしてみましょう。ゲルマン民族の登場以来、いかに外的な物
質に霊的なものを浸透させようと努められたか、いかにキリスト教の深みが受け取られたかを明らかにしてみましょう。外的な物
質から人々は出発しました。物体的かつ霊的なものへの萌芽を物質のなかに含むものから出発しました。(P136-P138)


スラブ世界

人類の他の部分を取り上げてみましょう。彼らは、物質的なもののなかに霊的なものを得ようと格闘することから、いかに遠く離
れてていることでしょう。「中国文明がいかに道教、孔子の宗教を保持しているかを観察するのは、博物学的に非常に興味深
い。そもそもアジアの諸宗教が最古の形態を保持しているのは非常に興味深い。理論的な悟性が居心地よく感じる形態、個人
的体験に対して硬直した形態、個人的体験を格闘にいたらせない形態である。人類文化の成果が受容されるときまで、その個
人的体験が保管しておかれるべきだからだ」と言いたく思います。

第五文化期においては、精神的なものが自らの力で達成されねばなりません。人間は第六文化期にいたって自らの観照・体験
を受け取るのですが、自ら達成したのではないものとして受け取ります。彼らは手に入れようと格闘せずに、精神的なものを外
的なもの、自明のものとして受け取って保管します。

大きな格闘の序曲が、ゲルマン世界とスラブ世界のあいだの格闘として次第に繰り広げられるにちがいありません。スラブ世界
は第六文化期のための前哨であるということを、よく考えてみてください。スラブ世界のなかに、第六文化期の萌芽が存在しま
す。これを精神科学的な意味で考えてみてください。そうすると、スラブ的要素のなかに、受け取るもの、格闘には関わらないも
の、格闘を拒むものが存在するのが明らかになるでしょう。

中欧では個人が神を把握しようと心魂が内面で戦ったのに対して、スラブ的要素はかつて存在した宗教・神学・儀式を保持して
います。スラブ的要素は、霊を内的に生きいきとさせず、上空の雲のように漂わせ、その雲のなかに生きます。個人としては、霊
に対して疎遠にとどまっています。(P139-P141)


東と西

中欧は、外的なキリスト教の古い形態にとどまっていることはできません。中欧は格闘しなければならないからです。東洋は立
ち止まり、その儀式の形態は硬直した抽象的なものになりました。東洋は、西洋が個人的に格闘して手に入れるものを外的に
受け取る準備をするべきだからです。東洋は、個人の格闘をとおして何かを獲得する用意はしていません。

まったく異なった二つの霊的衝動があるとき、人々は純粋に理論的な悟性によって、どのように相互理解を可能にしようとするで
しょう。相違したもののように振舞う、互いに異なった二つの精神の流れを人々はいかに裁定しようとするでしょうか。誤解しない
でほしいのですが、象に則ってライオンの習慣を理解しようとするでしょうか。ものごとは永遠の必然性から形成され、永遠の必
然性に従って経過します。

東洋は、みずからにとって必然的であったもの、ますます必要になるもの、つまり西洋文化との結合に抗わねばなりませんでし
た。根本的に、東洋は成熟前に正しい理解はできなかったからです。それを外的に表現したのが、ゲルマン精神とスラブ精神と
の紛争です。それはヨーロッパの上を漂う長い不安です。ゲルマン精神とスラブ精神のあいだの紛争です。

子どもが老人の業績を学ぶことに逆らうように、東洋は西洋の成果に逆らいます。西洋の成果を受け取るように強いられている
と感じると、東洋は西洋を憎みます。真理の光でこれらのことがらを照らし出すには、人々が今日好むものとはいくらか別のもの
が必要です。その別のものにときおり感づいても、人々はそれらに目を向けて自らの内的な衝動から理解することを好みませ
ん。この内的な衝動に少しでも触れれば、多くの無駄話がやむでしょう。外的な幻影に捉われた混乱は解消するにちがいありま
せん。(P141-P142)