色彩の秘密


 

 
音という窓をとおして感覚界から霊的世界に上昇する

音の世界をとおして、人間の魂のいとなみは深化し、活気づけられます。人間は音そのものを体験し、その音とべつの音との関
係を体験するのです。将来、人間は音の背後を体験できるようになるでしょう。人間は音を霊的世界に入っていく窓のように考察
するようになるでしょう。ある音がほかの音やメロディーに対してどのような位置にあるかは、不定の感情に依存するものではあ
りません。音をとおして、魂は霊的世界に突き進むのです。個々の音の秘密が、音の背後にある個々の音を体験することによっ
て明かされるのです。

おのおのの音という窓をとおして感覚界から霊的世界に上昇するという感情から、わたしたちはまだ遠く離れています。しかし、
やがて、そのような感情を持つようになってきます。彼方の霊的世界から、この物質的−感覚的世界への扉として神々が開け
たものとして、音を感じるようになります。そして、私たちは音をとおして、物質的−感覚的世界から霊的世界に上昇していくよう
になります。たとえば一度の音程をとおして、感覚界から霊的世界に、危険に満ちた方法で上昇していくのを感じるようになりま
す。一度は恐ろしい吸引力をもって、わたしたちを音の窓をとおして霊的世界に取り込み、霊的世界のなかに消滅させようとしま
す。それが、一度の危険性です。一度を絶対的なものと感じるとき、わたしたちは物質的−感覚的世界においてまだあまりに虚
弱で、その窓をとおって上昇すると、霊的世界に吸収されるように感じることになります。これが、わたしたちが一度をとおして霊
的世界に上昇するときに有する道徳的感覚です。単純に述べましたが、その道徳的感覚のなかには非常に複雑で、さまざまな
ものが含まれています。

二度の音程という窓をとおして物質界から霊的世界に上昇すると、彼方の精神的−霊的世界に、わたしたちの弱さを哀れむ力
があるのを感じます。その力は、「おまえは、物質的−感覚的世界では虚弱だった。もしおまえが一度をとおしてのみ霊的世界
に上昇するなら、わたしはおまえを吸収し、粉砕して、消滅させなければならない。だが、おまえが二度をとおして霊的世界に上
昇しようとするなら、わたしはおまえに霊的世界からなにかをもたらし、おまえのことを覚えていよう」と、いいます。

わたしたちが二度をとおして物質界から霊的世界に上昇するときに特徴的なのは、あたかも多数の音の総体がわたしたちにむ
かって響いてきて、その音が人間を受け入れることです。絶対一度をとおして霊的世界に歩み入ると、まったく無言の世界に入
っていくことになります。二度をとおして霊的世界に入ると、人間の弱さを慰めようとする、かすかに高さの異なったいくつかの音
が聞こえる世界にいたります。地上では、だれかの家の窓から中に入り、その窓を取り外して持っていくと家の持主から変な顔
をされるでしょうが、音という窓をとおしていたる霊的世界では、音を持っていって、音と一体になり、わたしたちを物質的−感覚
的世界から分離させる皮膚の彼方に生きなければならないのです。

三度の音程をとおして霊的世界に入ると、もっと大きな弱さの感情を持ちます。霊的世界に入ると、物質的−感覚的において、
霊的なことがらに関して虚弱であったことが感じられます。いまや自分が音になり、自分が三度になります。彼方では、三度で
はない友人がこちらにやってくるのを感じます。二度をとおして霊的世界に入ると、多くの音がかすかに響いています。三度をと
おして霊的世界に入っていくと、親しい音がやってきます。作曲家になろうとする人は、とくに三度をとおして霊的世界に入ってい
かねばなりません。三度をとおして入っていく霊的世界で、芸術的創造を刺激する旋律が生じるからです。三度をとおして精神
生活に入っていくと、いつも同じ音の友人に出会うわけではありません。自分の気分、体験、気質、つまり自分の生活状態しだ
いで、いろんな友人に出会うのです。無限に多様な音の世界が、そこに生じるのです。

四度の音程をとおして霊的世界に参入すると、つぎのような注目すべき体験をします。どこからも音は現れず、三度をとおして経
験したものがかすかな思い出のように心のなかに生きているという体験をするのです。四度をとおして霊的世界に参入し、音の
思い出とともに生きることによって、その音の思い出がいつも異なった色合いを帯び、明るく快活なものになったかと思うと深い
悲しみになったり、太陽の輝きのように朗らかになったかと思うと墓場のような陰鬱さになります。声の加減、音の上昇と下降、
つまりある音楽作品の気分の経過が音の思い出をとおして生じるのです。

五度はむしろ主観的な体験として生じ、魂的体験を刺激し、拡張します。五度は魔法の杖のような作用をし、計り知れない深み
から音の世界の秘密を呼び出します。(P28-P31)



色彩遠近法

平面を青く塗ると、その平面はうしろに遠ざかっていきます。赤か黄色に塗ると、その平面は前に向かってきます。線遠近法で
はなく、色彩遠近法を、わたしたちはふたたび獲得しなければなりません。線遠近法は、平面の上に彫塑的なものを魔法のよう
に偽造しようとするものです。平面に塗られた色彩が遠ざかったり、近づいたりするのを、わたしたちは感じます。自分に向かっ
てくる攻撃的なものを描くには、黄−赤で描きます。遠ざかっていく静かなものを描くには、青−紫を用います。色彩遠近法で
す。古代の画家を研究すれば、初期ルネサンスの画家たちは、まだ色彩遠近法の感覚があったのがわかります。ルネサンス以
前には、いたるところに色彩遠近法がありました。ポスト・アトランティス第五文化期になってはじめて、色彩遠近法のかわりに
線遠近法が現れたのです。

こうして、絵画は霊的なものとの関係を得ます。今日の人々が、空間を越えていくときに、いかにして空間をより空間的すること
ができるかについて省察しているのは、注目すべきことです。そして、人々は唯物論的な方法で、四次元について語ります。し
かし、この四次元というものは存在しません。借金が財産を潰すように、四次元というのは三次元を滅するようにして存在するの
です。三次元空間から出ていくと、四次元空間にいたるのではありません。四次元空間ではなく、二次元空間にいたるのです。
四次元は三次元を滅し、二つの次元のみが現実のものとして残るからです。物質界の三次元空間をエーテル的なものへと高め
ると、すべては二次元で方位設定がなされます。二次元の方位設定を考えることによってのみ、わたしたちはエーテル的なもの
を理解できるのです。三次元的にエーテルのなかを進むことができる、とおっしゃるかもしれません。しかし、三次元はエーテル
にとっては意味のないものなのです。ただ二次元のみが意味を持つのです。三次元はつねに、さまざまなニュアンスの赤、黄、
青、紫によって表現されます。エーテル内では、あるものをここに持ってきたり、あそこに持っていったりしてもおなじことなので
す。エーテル内では第三次元は変化せず、色が変化するのです。あるものをどこに置くかはどうでもよいことで、ふさわしい色に
変える必要があるのです。色彩とともに二次元において生きる可能性が得られるのです。こうして、三次元的な芸術から、絵画
という二次元芸術へと上昇し、たんなる空間を克服するのです。わたしたちのなかの感情は、三次元とはなんの関係も持ちませ
ん。意志のみが三次元と関係を有しています。感情は、つねに二次元のなかに限定されています。ですから、わたしたちのなか
に感情が見出されるのです。わたしたちが二次元をほんとうに正しく理解すれば、絵画が二次元において描き出しうるもののな
かでの再生が可能になります。

建築、服飾芸術、彫刻から絵画へと進もうとするなら、三次元的な物質から抜け出なければなりません。ですから、絵画という
芸術について、人間は絵画を内的、心的に体験することができる、ということができるのです。絵を描いたり、絵を鑑賞したりする
とき、絵はまず内的、心的に体験されます。しかし、そのとき、人間は本来、外的なものを体験しているのです。外的なものを、
色彩遠近法によって体験しているのです。内と外のあいだには、なんの区別もありません。魂は身体のなかを見て、魂が必要と
する形態を作りたいと思う、ということはできません。それは建築に関していえたことです。彫刻において魂は、彫塑的に形成さ
れた人間のなかに形態を形作りたいと思います。彫刻においては、人間が自然に合ったしかたで現在の空間のなかに置かれ
ます。絵画においては、それらすべては考慮に入れられません。絵画においては、なにかが内にあるか外にあるか、魂が内に
あるか外にあるかを語ることには、なんの意味もありません。魂は色彩のなかに生きるとき、いつも霊的なもののなかにいるの
です。絵画において体験されるのは、いわば宇宙における魂の自由な動きなのです。絵の具の不完全さを度外視すれば、わた
したちが色彩を見るとき、その絵が内的に体験されるか、外的に見られるかは考慮されないものなのです。(P70)



展覧会のために創作するということ

展覧会のために創作するということほど悪しきことは、ほかには考えられません。絵画の展覧会、彫刻の展覧会というのは最悪
のものです。たがいに関連性のない、いろんな作品が並べられているのです。ある作品をある作品のとなりに展示することに意
味がないのです。教会のための絵画、家のための絵画から、たんなる絵画へと移行した時点で、正しい意味は失われたので
す。展覧会のために描くとは、なんということでしょうか。そのようなことについて、これ以上言葉を費やすことはできません。そう
ではないでしょうか。展覧会でなにかを見ているあいだ、芸術との関係を失うのです。精神文化のなかに生じるべきなのは、霊
的−芸術的なものへの道を再発見することであるのがわかります。展覧会から解放されねばなりません。展覧会を嫌っている
芸術家はいます。しかし今日という時代では、個々人の判断が人間の完全な自由に貫かれた世界観に浸透されていないなら、
個人は多くを果たせません。かつての不自由な時代には、世界観が人間を貫き、ほんとうの文化を発生させるように導きまし
た。今日では、ほんとうの文化は存在しません。(P99-P100)


色彩から描く

わたしたちは、色彩から描くことを学ばねばなりません。まだ試みはじめたばかりの段階ですが、色彩から描くのがわたしたち
の課題です。色彩そのものを体験するのです。重さから解き放たれて、色彩そのものを体験するのです。意識的に、芸術的にこ
の方向に進むことができます。

まだ素朴なわたしたちの試みをご覧になれば、「まだはじまったばかりの段階ではあるが、そこでは色彩が重さから解き放たれ
て、みずからの内にみずからを担う要素として体験され、色彩は語るようになっている」のが見られます。そのようなことが達成さ
れると、芸術を蒸発させる物理学的世界観に対して、重さから解放された色彩と音響の自由な要素から、芸術が創造されるで
しょう。(P155-P156)



人間の自我とアストラル体は生命を持っていないが存在している

第一ヒエラルキアが「土星」紀に対する力を有し、第二ヒエラルキアが「太陽」紀に対する力を有し、第三ヒエラルキアが「月」紀
に対する力を有したように、第四ヒエラルキアとしての本源的な人間は「地球」紀に対して力を有するものと考えられました。本
源的な地上存在としての人間が第四ヒエラルキアなのです。そして、高次のヒエラルキアからの贈り物として、高次のヒエラル
キアが保管していたものが、第四ヒエラルキアとともに到来するのです。生命が到来したのです。色彩の光り輝く世界に生命が
入ってくるのです。「それでは、それ以前にはなにも生きていなかったのか」と、問われることと思います。人間を例にとってみま
しょう。人間の自我とアストラル体は生命を持っていませんが、存在しています。霊的なもの、魂的なものは生命を必要としませ
ん。エーテル体にいたってはじめて生命がはじまります。エーテル体は外的な覆いです。生命は「月」紀のあと、進化が「地球」
紀の領域に入ってからはじめて到来したのです。(P173)