神々との出会い





地球の死

今日の地球の物質成分は、カタツムリの殻のように、単なる殻でしかなく、地球が進化の目標に達したなら、肉体が死に際して
魂から離れ落ちるように、人びと魂全体から離れ落ちるのです。

死の門を通る人の魂が肉体を捨てて、霊界へ赴くように、人類の魂の全体が地球の死に際して霊的領域へ移行し、地球の物
質成分のすべてを殻や莢のように脱ぎ捨てるでしょう。では、地球が死を遂げたときのキリストの本体は、どこにあるのでしょう
か。

キリストの本体は、地球の死体から抜け出る人類の魂全体に浸透するのです。キリストの本性は、人類の魂全体と一緒に、霊
的な領界へ昇っていき、のちに「木星紀」と呼ばれる、地球の次なる物体化に到るのです。
(P110-P111)


地上の師は霊姿となって霊界にも現れる

古代ギリシアの秘儀参入者たちは、自分の中に閉じ籠もって、通常の魂の動きの映像を見たのではなく、通常はその中に沈潜
することができず、しかも自分たち自身であったもの、つまり偉大な教師ディオニュソス見たのです。弟子が秘儀に加入したとき
にはまだ見えなかったこの偉大な師を、秘儀参入者は自分自身の本性として見たのです。

顕教上の人びともディオニュソスとして知っていたこの偉大な教師は、外の世界では、実際に肉体に受肉した、物質界の人間と
して、ヨーロッパからアジアへ行進し、そしてまた戻ってきたのです。そのときの彼は、地上に生きている、実際の人間でした。し
かし、秘儀の中の彼は、現実の人体の姿によく似た霊姿となって現れました。そしてその霊姿は、今でも私たちの前に立ってい
ます。

このことは、私たちがよく意識しておかなければならない本質的な点です。この人物は外の世界ではディオニュソスの一行の中
で、肉身の人間として歩いていました。しかし秘儀参入者を高次の意識に引き上げる秘儀におけるディオニュソスは、霊姿となっ
て現れました。

現在でも同じです。人類の今の指導者たちは、外の世界では、人間の姿をとって生きています。そのときの指導者たちは、外の
世界の中で指導者とは認められていません。神智学が語る叡知のマイスターたち、「感性を共鳴させるマイスターたち」は、しば
しば、どの地方でも、素朴な人として働いているのです。マイスターたちは地上の世界で生活しているのです。しかし、最も重要
な教えは、地上での出会いの中では伝授されず、ディオニュソスの古式に則って、霊界で伝授されます。ですから、教えをマイ
スターたちから直接学ぶために、彼らの声を聴こうとする人は、肉身をまとったマイスターのもとに行くだけでなく、その霊姿にも
出会えなければなりません。この点は今日でも、古代のディオニュソス的な神秘主義と同じです。(P188-P189)


根源の神々のイメージである神々と人間の日常意識の関係

土星紀以前に存在した神々は、この上なく美しい調和と統一の下に生きていました。この神々は、思考する存在でしたが、た
だ、その神々の思考内容は、人間の思考内容とは異なり、実体であり、本性であり、別種の神々だったのです。ですから神々
の系譜には二つあり、一方は根源的に自分自身によって現実である存在なのですが、もう一方は土星紀、太陽紀、月紀の神々
の現実化したイメージそのものなのです。そしてこの後者の神々は、土星、太陽、月と進化を辿る宇宙体をとり巻いているので
す。

この神々は、他の神々のイメージの世界なのです。この神々と他の神々との関係は、ちょうど私たちの思考内容と私たちの現実
の魂との関係のようです。本来、他の神々の思考内容にすぎない神々のことを、これまで私たちは何と呼んできたでしょうか。
他の神々の思考内容にすぎない神々は、一定の特徴の故に、これまで「ルツィフェル的本性たち」と呼んできました。私たちはこ
のあとでも、「根源の神々が自分を自己認識しようという欲求を持った」とき、その欲求のすべての結果を、ルツィフェル的本性た
ちと考えなければなりません。ですからルツィフェル的本性たちのことを、根源的な神々は、宇宙思想もしくは宇宙的思想存在で
ある、と受け取っていました。ちょうど今日、人間が基本的に、自分を自分の思考内容の中で認識しようとするように、根源的な
神々はルツィフェルとその仲間のところで自分を認識したのです。

以上のことを、違った言い方で表現することもできます。他の存在たちのイメージにすぎなかったこの本性たちは、他の神々の進
化に較べると、常に停滞し続けています。前進する神々は、この本性たちを自分のあとに残し、それに回顧の眼を向けることが
できました。人間が日常、鏡の中にしか自分を見ることができないように、自分の実体から取り出してあとに残したこの鏡たちの
中に自分の姿を見ることができました。ですから、ルツィフェル的本性たちとは、停滞した本性たち、根源の神々から取り出され
て、あとに残された本性たちのことなのです。この本性たちは、前進する神々が自分の姿を認識するための鏡として存在してい
たのです。

小宇宙的な私たちの魂の中で生じるものは、この大宇宙の模像なのです。ただ、大宇宙の中で生じることが、私たちの内部で
は、逆になって現れてきます。

無意識の部分をも含めて、私たちの自己存在のすべては----私たちの身体組織もそこから生じたのですが----、この根源的
な神々の系統に由来するのです。けれども私たちの意識体験、通常の意識が日常見ているものは、根源の神々のイメージにす
ぎない神々に由来するのです。

私たちの本性は、二つの側面から私たちの中に入ってきます。すべての無意識をも含んだ私たちの組織全体は、根源の神々の
系統に由来しますけれども、私たちの意識内容は、他の系統に由来します。土星紀、太陽紀、月紀をとり巻く神々の系統に由
来するのです。ですから、私たちが自分のイメージ生活に関わるとき、そのイメージが或る神々の系統の末娘にすぎない、私た
ちの意識生活は非現実であり、思いがただ現れたり、消えたりするだけだ、と感じるのです。(P216-P218)