内面への旅




「楽園にいる」とは「霊的に生きている」ということである

唯物論は、しばしば、たいていの人の主要な生活問題である養分の摂取、体内における栄養の分配が人間全体なのだ、と考
えています。このことは、ルツィフェルの影響を通して、エーテル体に対するアストラル体の優位が生じた結果だったのです。つ
まり、人類の進化の発端にルツィフェルが働きかけて、アストラル体とエーテル体の関係を逆転させたのです。この事実がなか
ったなら、人間は現在のような仕方では、食べたり、消化したりすることはなかったでしょう。人間における物質的な主要過程
は、すべてルツィフェルの行為の結果であり、アストラル体とエーテル体の間が逆転した結果なのです。アストラル体はルツィフ
ェルの働きの分け前を得、それによってエーテル体に対する優位を獲得したのです。

人間が物質素材である養分を摂取するようになったのは、ルツィフェルの働きによるのです。本来、人間は、物質素材を養分とし
て摂取するように定められていたのではありません。物質素材を摂取する必要のない生存段階で生きられるように、そういう生
存の仕方を創り出すように定められていたのです。

いわゆる「楽園からの追放」がルツィフェルによって惹き起こされた、という物語も、このことを雄弁に語っているのです。楽園にい
る、とは霊的に生きている、ということであり、物質的な養分を摂取する必要がない、ということなのです。唯物論的な考え方をす
る多くの人たちにとっての最高の楽しみは、楽園からの追放です。養分を摂取し、消化しなければならなくなったという罰、つま
り聖書に象徴されている最初の人間たちにとって最大の喪失と思われた楽園からの追放は、多くの人たちにとっての最大の楽
しみとなりました。そしてこのことによって人間は、いわば二重に罰せられているのです。現在、人間はそこまで変わってしまっ
たのです。楽園の外にいる、ということさえも、人間にとっては大きな喜びなのです。そうなったというのは、本当に奇妙なことで
す。(P71-P72)


人はいつも霊視像をあとに残している

骨からは、霊視によって把握される成分が放射されます。このことは、特別興味のあることです。皆さんの知識の中に見霊研究
の成果を詰め込みすぎるようなことはしたくありませんが、非常に興味のあることですので、お話ししたいのです。骨が崩壊し、
骨から霊視内容が放射されますと、その放射を通して、人間は、どこへ行くときも、どこにおいても、霊視によって知覚できる霊
像をあとに残すのです。精妙な影が、私たちのいたところなら、どんなところにも、あとに残されています。

皆さんがあとでこの会場から出ていきますと、ここにあるベンチの上に、しばらくの間精妙な影が残るでしょう。そしてその影は、
一般的な宇宙過程の中に取り込まれるまで、ここに存在し続けるでしょう。十分に修行を積んだ見霊能力は、それを知覚できる
でしょう。それは骨組織から放射された各人の精妙な影なのです。

不愉快な人物が住んでいた部屋に入ったときに感じる居心地の悪さは、この霊視内容に、その人物があとに残した影に、主とし
て基づいているのです。不愉快な人物の影がまだそこに残っているのです。ですから、感受性の強い人は、この体験において、
見霊能力者に劣っていません。むしろもっと敏感に、別の人が部屋の中に残していった影に不快感を持つのです。見霊能力者
は、感受性の豊かな人が感じ取るものを霊視像として直観するだけなのです。(P111-P112)


三つの脳

私たちの手とは、一体何なのでしょうか。私たちの手は、決定的に私たちの魂と結びついています。手の動きを生きいきと感じる
ことができる人なら、大切なことを語ろうとするときの手ぶりの役割を、無視したりはしないでしょう。手ぶりは、それ自身独自の
表現手段です。それに関連した多くのことを今は省略せざるをえませんが、次のように考えていただきたいのです。

人間存在にではなく、宇宙存在に根ざした経過を通して、私たちの手が自由に使えなくなっていたとするのです。手が私たちの
意志に従えず、私たちの身体組織の中にしっかりと組み込まれ、生まれつき自由に動かすことができなかった、とするのです。

しかし、手が身体に固定されていて、それを動かすことができなかったとしても、私たちはその手を動かそうとするでしょう。それ
にもかかわらず、動かすことができないのです。そういう場合、手を動かそうとするために、私たちは手のエーテル体を動かして
います。肉体の手は静止していても、エーテル体手は動くのです。

私たちの脳は、実際、そのように機能しているのです。私たちの頭骨にとって閉ざされている脳の特定の葉弁は、月紀において
は、まだ自由に動いていました。現在は固定されて、肉体としては動けません。しかしエーテル体としては、思考するたびに動
いています。私たちは、エーテル体の脳を、思考するたびに動かしているのです。そのような葉弁を覆う硬い頭蓋がなかったら、
私たちは脳葉を使って、現在手でやるようなジェスチャーをしたでしょう。しかしそうなったら、私たちはもはや思考しなくなったで
しょう。思考するためには、まず頭蓋が肉体として固定され、そしてエーテル体の脳だけが引き離されて、動けるようにならなけ
ればなりませんでした。

今言いましたことは、空想ではありません。木星紀になれば、私たちの手だけでなく、他の身体部分もまた固定されてしまうでし
ょう。そのときには、今は自由に動いているように見える、人体の胸部に属しているものも、覆いによって閉ざされてしまうでしょ
う。現在の脳が頭蓋によって閉ざされているようにです。手がすでにはっきりと示しているように、肢体は、いつかは思考器官に
なるのです。

さらにまた、今は十分に外に突き出てもいなければ、独自の形態を示してもいない、小さな退化した器官として、私たちは肩甲
骨を持っています。肩甲骨は平らな形をしていますが、いつかは手という未来の脳を閉ざす役割を果たすでしょう。肩甲骨は本
来、頭蓋に属する骨なのです。この胸の部分が、いつか人間の第二の脳を形成することになるでしょう。

そこで今、もっと背理としか思えないような事柄を申し上げなければなりません。人体には肩甲骨だけでなく、さらに目立たぬ存
在でありながら、いつかは頭蓋となるような器官もあるのです。それは膝頭です。膝頭は今は小さな平面体にすぎませんが、将
来は人間の頭になるのです。

ですから私たちは、本来、三つの頭蓋を持っているのです。一つの頭蓋はすでに十分にでき上がっており、どんな方向において
も閉ざされております。第二の頭蓋はまだ肩甲骨でしかありません。そして第三の頭蓋はまだ膝頭に留まっているのです。この
第二と第三の頭蓋は、今はその断片でしかなくても、将来は円球状にまで形成されるのです。今は外から見ると、ほとんど形ら
しい形をしていませんが、あとになれば、それが第二、第三の脳となるのです。皆さんが現在手でジェスチャーをするとき、未来
の思考の準備をしているのです。エーテル界のための思考の準備をです。現在の私たちの頭脳は、物質界のための思考を行っ
ています。膝頭の周辺の脛や足は、物質的な仕方で地球の重力と関わりを持つ器官ですが、それらが今、霊的な仕方で、肉体
の器官だけでなく、エーテル体の器官にもなる準備をしているのです。それは地球紀が金星紀になったときに、霊界を認識する
ための器官となるのです。そのときには、今日の物質的形態失われ、その代わりに別のものが現れるに違いありません。(P240
-P243)