神秘主義と現代の世界観





心霊術と唯物論

自然科学が高次の認識へと移行すべきなら、自然科学はついには霊の領域に高められねばならないというのは本当である。し
かし、自然科学が高次の段階の正しい基盤を提供すべきなら、自然科学はまず固有の分野にとどまらねばならないというのも
本当である。「自然のなかの霊」はただ霊にとってのみ存在するのである。この意味において、自然が霊的であるのは確かであ
る。そして、体的な器官によって知覚される自然のなかの何ものも直接霊的ではないというのも確かなのである。私の目に霊的
なものとして現れうる霊というものは存在しない。そのような霊を私は自然のなかに探求してはならない。外界の経過を直接、霊
的に説明し、たとえば人間の魂から類推したものを植物の魂とするときに、私は自然のなかに霊を探求するのである。霊や魂を
空間的、時間的存在として、永遠の人間が純粋な霊としてではなく、一種の体として時間のなかに生きつづけるといったり、死
者の霊がなんらかの感覚的に知覚可能な形で現れうるかのように信じるなら、自然のなかに霊を探求していることになる。この
ようなあやまちを犯している心霊術(スピリチュアリズム)は、霊を正しく表象することができずに、粗雑な、感覚的なもののなか
に直接霊を見ようとしているのである。心霊術は霊の本質のみならず、感覚的なものの本質をも誤認している。珍しい、驚くべ
き、つねならぬものを直接、霊と見なすために、心霊術は刻々と私たちの目前に展開される通常の感覚的なものから霊を放逐し
ている。たとえばふたつの弾性のある球がぶつかるときに、「自然のなかの霊」として生きるものが、霊を見ることのできる者に
は現れるということを心霊術は理解しない。珍しく、自然の関連においてただちに見渡すことのできない過程においてのみ自然
の霊が見られるのではない。心霊論者(スピリチュアリスト)は霊を低次の領域に下している。空間中に生起し、感覚によって知
覚されるものを、空間的、感覚的にのみ知覚可能な力と本質をとおして解明するかわりに、「霊」を感覚的に知覚可能なものと
同一視するのである。そのような表象方法は、霊的な理解能力の欠如にもとづくものである。霊的なものを霊的な仕方で見るこ
とができないのである。そのために、霊への要求を単なる感覚的なもので満足させるのである。そのような人に対して、霊はい
かなる霊も示さない。だから、そのような人は霊を感覚によって探求するのである。雲が大気中を流れるように、霊が行き交うの
を見たいと思うのである。(P138-P140)