子どもの教育






教師の気質が子どもの身体に与える影響

私たちが教師として、教育者として子どもの生まれてから最初の7年間に与える印象は、子どもの血行、呼吸、消化に作用を及
ぼしますが、その作用は、ときには40歳、50歳頃の健康と病気となって現れることもあります。ですから、教育者が幼児に接す
るときの態度がその子の将来の幸と不幸、健康と病気を生じさせる原因になりうるのです。

この人生の真実を、よくわきまえていて下さい。この真実は、実験室での物理学上の成果や植物展示室での植物の形態とまっ
たく同じように、よく観察できることなのです。しかし、人は通常そういう観察をしようとしません。

例を挙げれば、学校で先生が生徒の横に立っているとします。その先生の気質は、精力的で、怒りっぽい胆汁質でした。また
は、内向的で、自分自身の方にばかり眼を向け、自分に対しては敏感であっても、世間から身をそむけがちな憂鬱質でした。ま
たは外から来る印象がすぐに気になり、印象から印象へとこころが移っていく多血質でした。またはすべてをなりゆきにまかせ、
外から来る印象にはそれほどこころを動かされることのない粘液質でした。

教員になるための養成施設で、こういう自分の気質と意識的に向き合うことなく、気質を野放し状態にしておいたとします。そし
て歯の生え変わるまでの子どもが、そういう先生の胆汁質にじかに触れ続けたとします。先生が胆汁質をむき出しにして子ども
に接していたとしますと、その子の循環系、内的なリズムは強い印象を受け続けます。初めのうちは印象が深く入っていきませ
んが、その印象が萌芽となって残るのです。そして萌芽は生長していきますから、ときには40歳、50歳の頃の循環系に先生の
むき出しの胆汁質の影響が現れてくるのです。私たちは子どもを、子どものときのために教育するだけでなく、子どもの一生のた
めに教育するのです。そしてさらには、この世の一生を超えるときのためにも教育するのです。

別の例を挙げれば、憂鬱質の人が自分の気質をむき出しにして、教員養成期間中にその気質を調和させることもなく、正当な
仕方で子どもに向き合おうとする衝動を受けとることもなかったとします。そして子どもと向き合っても、自分の憂鬱質に従ったま
までいたとします。そのような態度で考えたり、感じたりしていたとしますと、本来、先生から生徒へ流れていくべき熱が、逆に生
徒から先生の流れていってしまいます。その結果、授業に魂の熱が欠けてしまい、その影響が子ども消化系に及び、消化系の
中で萌芽となって存在し続けます。そして後年、血管系にいろいろな障害を、血液の病気を生じさせるのです。

すべてに無頓着な粘液質の人も、生徒との間に特別の関係を生じさせます。教師と生徒との間が冷たいというよりは、内的にお
そろしく流動的になるのです。どこにも手応えが感じられず、教師と生徒との間で魂の交流が不確かなものになってしまいます。
生徒は内的に思いきり活動することができません。そういう粘液質の影響を受けた子どもを、晩年に至るまで辿っていきますと、
脳の障害、脳の貧血がずっとあとになって現れてくるのが認められます。

多血質の先生の場合を考えてみましょう。その先生は、どんな印象にも注意を向けます。しかし、すぐに別の方に注意がそれて
しまいます。この気質の先生は、自分にも生徒たちにも、特別な態度で臨みます。先生が印象から印象へ移り変わっていくの
で、生徒はとてもついていけません。子どもが内的に生きいきとしていられるためには、ひとつの印象を愛をもって受けとめ、そ
れをゆっくりと消化する必要があるのです。こういう多血質の教師の下で教育を受けた子どもは、後年になって、生命力に欠け、
重厚な人柄、内実のある態度を示すことができなくなります。

教育には魂のこまやかなまなざしが必要なのですが、そういう眼で、40歳、50歳になった人を見てみると、その人がどんな気質
の先生に学んだのかを言い当てることさえできるくらいなのです。

以上のことを初めに申し上げたのは、教授法に役立てていただきたいと思ったからではありません。子どもの教育において、ここ
ろの次元の働きがこころの次元に留まることはなく、必ずからだに移っていく、ということを、まず指摘しておきたかったからです。
子どものこころを教育するというのは、その人の全生涯にわたるからだの状態を左右することをやっていることなのです。(P88-
P91)


教育芸術

教育芸術は本来、人間を本当に認識した上でないと、実践することができません。そして本当に人間を認識するには、ただ考察
を行うだけでは不十分なのです。人間の本質を受け身の知識によって知ることはできません。人間を「知ろう」と思うなら、少なく
とも或る程度まで、それを自分自身の本質の中に働いている創造性に即して、「感じ取らなければ」なりません。それを自分の
意志行為を通して感じとらなければなりません。

人間のことをただ受け身の姿勢で学ぶ限り、その知識は教育実践に対しては抑圧的な作用しか及ぼしません。なぜならそのよ
うな知識を実践に移そうとすれば、教育者は教授法を、ただ外から教え込まれたものとしてしか受け取ることができないからで
す。教育者が自分でそのような教授法を作り上げたとしても、その内容は本質的には外から与えられたものなのです。

教育学の基礎となる人間認識は、それを受け取る人が自分の中でそれをまず生かそうとしなければなりません。私たちが正しく
呼吸し、正しく血液が循環しているとき、自分の身体を健康であると見なすことができるように、人間についての私たちの認識
も、それが私たちの中で生かされていなければ、自分のものとして体験することができないのです。

わたしたちが教育者として、授業するという大きな課題を引き受けるなら、私たちの人間認識が授業の中にまで当然のように流
れていかなければなりません。そしてこの当然の行為の中には「愛」が表現されていなければなりません。そうすれば、そこに
受け身な人間認識など存在する余地はありませんし、「こうすれば子どもはこう思うだろう。だからこうしなければならない」と外
側からあれこれ思索したりする余地もありません。そこに生きて働くものは、自分で直接体験することのできた教師の人間認識
だけです。この認識は教師の「自己認識」以外の何ものでもないのです。そしてその認識を通してこそ、教育における子どもへ
の働きかけが必然的に愛としての性質を持つようになるのです。そしてこのことは子どもを本当に体験することでもあるのです。
眼が色彩を感じ取るように、生きいきとした人間認識は、子どもの本性を体験するのです。

自然認識は理論であってもかまいませんが、人間認識が理論に留まると、健全な感受性の持ち主にとって、それはまるで人間
の骨格だけを体験させられているようなものなのです。人間認識における理論と実践の相違をいくら論じても、何にもなりませ
ん。なぜなら生活の中に本質的な作用を及ぼすことのできない人間認識は、頭の中で影のように浮遊する表象内容の興味ある
集合物ではあっても、人間に深く関わることはできないからです。しかしその逆に、本当の人間認識の光を受けずにいる生活行
為も、不確かな足どりで暗闇の中を模索するばかりなのです。

以上に述べたことが教育者の「心構え」になれば、それだけで子どもたちの前で生きいきとした教師の姿を示すことができるでし
ょう。そして成長しつつある子どもに対して、自分で自分を教育するように、と優しく促すことができるでしょう。

事実、「教育者としての正しい心構え」こそがすべての教育実践における本質部分なのです。

このような心構えによって、将来の「全人」の萌芽である子どもの成長過程が見えてきます。

おとなは機械的な労働の中でも自分を見失うことなく、その全人を労働の中に生かそうとしなければなりません。どんな子どもの
本質も、人間全体の本質を表すことのできるような労働への準備を行いたいと思っています。どんな子どもも、活動することが人
間の本性に基づいているからこそ、活動したいのです。おとなの場合、厳しい世間が特定の決められた作業を求めます。子ども
の場合、成長する人間本性は教師に正しく導かれて、将来の社会労働の萌芽となりうるような活動を求めます。(P94)


教育と道徳T

教育者にとっての最高の課題は、自分に委ねられた若者の道徳的な生活態度を育てるために何をしてあげられるか、ということ
です。しかし国民学校(小・中学校)の教育にたずさわる人にとって、この課題は大変困難なものだと言えます。その理由のひと
つは、道徳教育はすべての授業の中に浸透していなければならないからです。他の授業から切り離された「道徳の時間」が設
けられたとしても、その時間内に達成されうる事柄は、道徳を身につけさせる上で、他のどんな授業に較べても、ずっと役に立ち
ません。道徳教育は教育行為そのものの中にあるのだからです。実際、どんな場合にも無神経に作り上げられた「道徳理論の
課程」は、たとえその時間にどれほど印象深い話がなされたとしても、あとになってその意図した結果を生じさせることはできな
いでしょう。もうひとつ別の困難は、小学校に入学した子どもがすでに基本的な道徳習慣をそれまでの生活の中で作り上げてい
る、という事実にあります。

子どもは、7歳の頃の歯の生え変わる時期までは、完全に環境と一つになって生きています。その意味で、子どもは全体が感
覚である、と言ってもいいくらいです。眼が光や色彩と一つになって働くように、子どもはそのすべてが環境の生活表現と一つに
なって生きているのです。父親、母親の一挙手一投足がそれに応じた仕方で子ども内なる力に形成されます。ゼロ歳からこの
時期までに、脳組織が人間の内なる力によって形成されます。そしてその脳から身体のすべての組織へ向けて、それらの組織
に特定の形態を与える働きが及ぶのです。その際、脳の中には、精妙な仕方で環境に適応しつつ、組織が形成されていきま
す。子どもが言語を習得できるのはまったくこのことの結果なのです。

けれども環境のあり方は、その外側の部分だけが子どもの本性に作用し、その内部に刻印を押すのではありません。外側の部
分とともに、周囲の人間の魂の内容、道徳内容も作用を及ぼすのです。日常、子どもの前ですぐに怒りを表す父親は、子どもの
最も精妙な組織構造の中にまで、怒りへの傾向を受け入れようとする働きを組み込むのです。いつもひどくおどおどしている母
親は子どもの身体組織の中にまでその働きを及ぼして、子どもの魂をひどくおどおどしたものにします。

歯の生え変わる頃までには、子どもの身体組織の中に組み込まれた特定の道徳的傾向が子どもの魂を特徴づけているので
す。

この状態の下で、つまり道徳的に傾向づけられた身体組織を持った子どもの教育を国民学校の先生は引き受けるのです。この
事情が理解できない先生は、子どもが無意識に拒否するであろうような道徳衝動をも子どもに押しつけようとします。それを受け
入れることにからだが抵抗するから子どもは拒否するのです。

しかし道徳教育にとって本質的なのは、小学校に入学する子どもがそれまでの環境模倣によってすでに基本的な生活態度を身
につけていること、そしてこの基本的な生活態度がこれからの学校環境の中で変化できること、このことを教育者がよくわきまえ
ていることなのです。怒りやすい環境の中で育った子は、その環境を通して、身体組織を育成してきました。このことに注意を向
けなければなりません。このことを考慮に入れなければなりません。しかしそれを変化させることはできるのです。このことが理
解できれば、歯の生え変わりから思春期までの第二・七年期に、必要に応じて、適切な、思慮深い、断乎とした態度で、子ども
の魂を支える用意をそのつどしてあげられます。不安な、おびえた環境に由来する子どもの身体組織は羞恥心と純潔さを大切
に感じる高貴な気持ちを育てることで、同様に必要な支えを与えてあげられます。このように人間の本性を本当に認識すること
が、道徳教育にとっても基本的に必要なことなのです。

教育者は歯の生え変わりと思春期との間に子どもの本性が一般にどういう発達を遂げるか、その際何が要求されるかをよく意
識していなければなりません。

道徳上の基本態度を変化させ、正しいと思えることを伸ばすことができるようにするには、感情生活における道徳的な共感、反
感にまで影響が及ばなければなりません。そして感情生活に働きかけることができるのは、抽象的な規範や理念ではありませ
ん。「形象」なのです。私たちは授業中、子どもの魂に向けて偉大な人間の生き方や行動を形象(イメージ)として提示する機会
を作ることができます。そのような形象(イメージ)が道徳的な共感と反感に働きかけるのです。道徳についてのこのような感情
判断を歯の生え変わりと思春期の間に育成しなければならないのです。

歯が生え変わるまでの子どもは帰依する態度で環境の生活表現を直接模倣するのですが、歯の生え変わりと思春期との間で
は、教育者が権威をもって語る言葉を帰依する態度で受け容れます。もしこの第二・七年期に、教育者のおのずからなる権威に
帰依的に接し、それを通して自分を成長させることができなかったなら、その後の人生において道徳的な自由への意識を目覚
めさせることはできません。教育者の権威の必要性についてはすべての教育に言えることですが、とりわけそれは道徳教育に
とって必要なのです。尊敬する先生のそばで、感情を働かせながら、子どもは何が善く、何が悪いのかを学ぶのです。先生は世
界秩序の代表者です。成長しつつある子どもはまず信頼できるおとなを通して、世界を知るようになるのです。

このようにして世界を知ることの中に、どれほど重要な教育衝動がこめられているかを知るためには、第二・七年期の三分の一
が過ぎた、ほぼ9歳から10歳にかけての子どものことを、本当によく認識しようとすることが大切です。人生のこの時点で、最も
重要な転換期のひとつを子どもは迎えます。子どもは半ば無意識に、多かれ少なかれ暗い感情の働く中で、或る本質的に重要
な体験をやり遂げるのです。そのとき子どもにおとなが正しく向き合うことは、子どものその後の生活全体を計り難いほどの影響
を及ぼします。この時期の子どもが夢に似た感情の営みの中で体験する事柄を、もしも意識的な表現で語るとすれば、次のよう
に言わなければなりません。子どもの魂の中に問いが現れてくるのです。「先生は私が今、尊敬を込め、信頼を込めて受けとっ
ているその力を一体どこから得ているのか」。私たちはこのように問う子どもの無意識の魂の深みに向かって、教育者として、自
分の権威が世界秩序の中にしっかりと根を下ろしているからこそ正しいのだ、と実証できなければなりません。本当の人間認識
を持つことができれば、この時期の子どもがいくらかの言葉を、それどころかときにはたくさんの言葉をこのことのために必要とし
ている、ということに気づくはずです。何か決定的な体験がこの時期には必要なのです。そして何が決定的なのかを教えてくれ
るのは、子ども自身の本性だけです。そして子どもの道徳的な力、道徳的な確かさ、道徳態度のために、まさにこういう時期にこ
そ、言い表し難いほどに重要な事柄を教育者は行うことができるのです。

思春期までに道徳的な感情判断が正しい仕方で育成されるなら、次の第三・七年期になって、その判断が自由な意志の中に
取り入れられるでしょう。国民学校を卒業した若者たちは国民学校時代の魂の作用を受け継ぎ、自分の中の道徳衝動を他の人
たちとの社会的な共同生活の中で、自分の存在の内部から発展させようと願いながら、生活するようになるでしょう。そしてそれ
までに正しく育成された道徳的な感情判断の中で芽生えてくる意志が、道徳的に力強い存在となって行動の中に現れてくるで
しょう。(P100-P105)


教育と道徳U

霊的認識の第一段階に立つと、今この瞬間だけに世界と関わり合っているのではなく、生まれてから経験してきたこれまでの
人生のどの瞬間にも立ち戻ることができる、と思えるようになります。

18歳、15歳の頃に立ち戻って、その当時の体験を、影のような思い出としてだけでなく、生きていたときと同じ切実さ、同じ生き
る力で、追体験できるようになるのです。そのときの私たちは、ふたたび15歳、12歳になれるのです。私たちが、こころの内部
で、この霊的な変容を体験するとき、第二のからだである「エーテル体」という精妙なからだに出会います。エーテル体とは、空
間内のからだとは違い、体重のない、時間のからだのことです。

そのときの私たちは、一気に、エーテル体に刻印づけた時間内の出来事のすべてを通観します。そしてそれを可能にしているの
がエーテル体なのです。この精妙なからだの中は、空間のからだ(肉体)と同じように、私たちがその中に生きているからだなの
です。

たとえば、私たちが或る種の頭痛に悩まされるとき、その頭痛を治すのに、便秘を解消しなければならないことがあります。頭だ
けを相手に治療するのではなく、頭とかけ離れた臓器を相手にする必要があるのです。このように、私たちの担っている「空間の
からだ」の中では、どの部分も相互に関連し合っていますが、しかしこの「エーテル=時間体」においても、同じことが言えるので
す。エーテル体は、特に幼児期に活発な働きを示していますが、もちろん一生の間働き続け、たとえば次のような働きを示してく
れます。

35歳の人が、新しい人生の転機を迎えたとき、眼の前の状況をよくのみこんで、必要な行動をとることができた場合、今、自分
がそう判断し、そう行動できたのは、かつて12歳だったとき、または8歳だったときの先生から学んだことのおかげだ、と思えるこ
とがあります。35歳のその人は、8歳か12歳のときに先生から受けた教えが、ふたたび今喜びとなって輝くのを感じます。先生
が8歳か10歳のエーテル体に与えてくれたものが、----ちょうど頭から離れたところにある器官が頭痛を消す働きをするように-
---遠く離れた後年に立派な働きをしてくれるのです。6歳または12歳のときに体験したことは、35歳以後になっても働き、そし
て喜びの気分やふさいだ気分を喚び起こすのです。最晩年の人の心身の状態は、空間体(肉体)の或る器官が離れたところに
ある別の器官に依存しているように、かつて幼児期に先生が時間体(エーテル体)に与えた体験に依存しているのです。(P106
-P108)

(中略)

子どもが9歳と10歳の間の時点に達したとき、特に子どもの創造力を刺激するイメージを取り上げることが大切です。共感を喚び
起こせるような生き方のイメージをです。子どもに道徳的な規律を教え込むのでも、知的に道徳上の判断をさせるのでもありませ
ん。

大切なのは、美的な関わり方、つまり想像力を働かせることなのです。善と悪、正と不正についても、美的に共感、反感を喚び
起こせるようにならなければなりません。また崇高な行為、立派な態度、または不正な行為のそれぞれにふさわしい結末を示し
て、子どもの感情に訴えかけるのです。それ以前は、先生自身が子どもの道徳的規範でなければなりませんでしたが、今は感
覚体験と結びついた、生き生きと想像力に働きかけてくるイメージを子どもに与えなければなりません。思春期までに道徳を感
情で受けとめられるようにならなければならないのです。子どもが感情でしっかりと判断できるようになり、「これは善いことだ、
共感できる、これは悪いことだ、とても好きになれない」、と言えるようにならなければなりません。共感と反感、感情による判
断、それが道徳生活の基礎にならなければならないのです。

人間の時間体(エーテル体)もひとつの生きたからだであり、そこでは、時間的にすべてが関わりあっている、ということが洞察
できたなら、正しいときに正しいことを行うことがどんなに大事なことか、分かるでしょう。植物を育てるとき、すぐに花を咲かせよ
うとはしません。花が咲くのは、ずっとあとになってからです。初めは根づかせなければなりません。根を花にしようとしたら、植
物は生きていかれません。歯の生え変わりから思春期までの子どもに知的に道徳判断を求めようとしたら、植物の根を花にしよ
うとするようなことになってしまいます。まず根を、そして芽を育てなければなりません。言い換えれば、感情の中での道徳性を
です。子どもの感情の中に道徳を育てますと、思春期にすこやかな知性が目覚めるのです。そして子どもは、歯の生え変わりと
思春期の間に感情として体験した事柄を、自分で内的に、知的に深めて、優れた道徳的判断をすることができるようになるので
す。

道徳教育はすべて、このことを目ざすのでなければなりません。これは人生にとって大変重要なことなのです。植物の根をただ
ちに花にすることはできず、根から芽が出、茎が伸び、最後に花が咲くまで待たなければならないように、私たちは道徳の根を
感情判断の中で、道徳への共感の中で、ゆっくりと育てなければなりません。そうすれば、子どもはあとになって、自分の力で
道徳感情を知性に結びつけるでしょう。そのとき、何が正しく、何が正しくないかを教えてくれた先生への思い出が生きいきと残
るだけでなく、魂の生活全体が喜び、力づけられ、後年になっても、道徳的な判断をするたびに、先生のかつての教えが必要な
瞬間に目覚めてくれるでしょう。子どもをなんらかの道徳的な方向に強制しても、よい結果は得られません。自由に成長する魂
の中から、道徳的な方向がおのずと生じてくるのでなければなりません。そうすれば、子どもの魂は、道徳的判断力だけでな
く、道徳的な行動を身につけます。すべてを「正しい時点」で教育するように努めることが、教育の霊学的な方法なのです。この
ことは何度でも繰り返して言わなければなりません。

こう言うと、皆さんはお尋ねになるでしょう。「子どもを教育するとき、歯の生え変わりと思春期との間に感情による道徳判断を学
ばせ、知性に訴えかけたり、規律に従わせたりはしない、と言うのなら、私は何も確かな基準が持てなくなる。」

そうなのです。あの自立した権威が、今や先生と生徒との不確定要因になっていくのです。このことをひとつの例で明らかにして
みましょう。私は人間の魂の不死について、子どもにイメージで説明しようとします。科学的にではなく、イメージによってです。
本来、思春期以前の子どもは、科学など存在していませんから、自然も精神も、こころもからだもひとつに結び合わさっていま
す。ですから、魂の不死を芸術的にイメージできるように語るのです。「いいかい、これはさなぎだよ。蝶はさなぎから這い出てく
るね。それと同じように、人が死ぬと、魂がからだから離れて、外へ出ていくんだよ」。

こう語ることで、子どもの想像力を刺激します。生き生きと魂のイメージを子どもの道徳心を刺激するように示すのです。その場
合、二つのやり方があります。

そのひとつはこうです。「私は偉い先生だ、何でもよく知っている。子どもは幼く、何も分かっていない。子どもはまだ私のレベル
に達していないのだから、子どものイメージを作らなければならない。そのイメージは、私自身の役には立たないけれども、子ど
もの役には立つはずだ」。

もし私がこういう考え方で子どもに接したなら、そのイメージが子どものこころに訴えかけることはありません。入ってきたときと同
じように、また外へいってしまうだけです。先生と生徒の間には、不確定要因が働いているのですから、その時そのときが勝負
なのです。

しかし、私はこう思うこともできます。「もともと自分は子どもより利口だとは思っていない。多分無意識の分野では、私より子ども
の方がずっと賢いのだろう」。私が子どものこころを尊重し、イメージに関しても、「私が自分でこういうイメージを作ったのではな
い。自然そのものが這い出してくる蝶のイメージを私に与えてくれたのだ。私は子どもとまったく同じくらい熱心に、このイメージを
信じている」。

私が自分で信じているとき、そのイメージは子どものこころの中に場所を占め、物質世界にではなく、先生と生徒の間に生きて
いる不確定ながら精妙な世界の中で働き始めるのです。そしてそこに働く不確定要因こそが、知的な授業で学習するすべてを
上回る働きをしてくれるのです。

こうして子どもは先生の隣で、のびのびと成長していきます。そういう先生は、生徒の傍らでこう思っています。「私は子どもたち
の環境になっている。子どもができるだけ自分で自分を教育する機会を用意する役割を担っている。生徒よりも私の方が偉いは
ずはない。ただ数年早く生まれてきただけなのだから」。

実際、先生がいつも偉いわけではありません。だから、いつも子どもの成長の協力者でありさえすればよいのです。庭師が植物
の手入れをするとき、根から花へ通じる樹液の流れを外から無理に速めたりはしません。植物の環境に配慮して、樹液がよく流
れるようにするだけです。それと同じように、自分を無にして、子どもの内なる力がおのずと発達していけるようにすれば、良い先
生になれるのです。そうすれば、生徒は立派に育っていけるのです。

こうして子どものこころが発達していけば、道徳心も植物と同じように、次々と或る部分から次の部分へと成長を遂げていきま
す。まず、道徳心は、模倣本能となって現れます。それから、前述した仕方で、道徳感情が子どもの中に根づきます。そしてあと
になって、生活上必要な内的な、または身体的な力を発揮して、道徳的な生き方ができるようになります。そうでないと、おそら
くは体力と気力が麻痺してきて、立派な道徳的判断はできても、それに従うだけの力が持てなくなってしまうでしょう。

第一・七年期に手本が力強く働きかけていたら、道徳心がしっかりと根づきます。歯の生え変わりから思春期までに善への共感
の力と悪への反感の力が子どもの感情の中で生きているなら、後年になって、道徳的な態度をとらせまいとするあれこれの抑
圧を乗り越える力を持つことができるとでしょう。

模倣する存在だったときの人間は、からだの中に魂に必要な力を蓄えました。その力によって、第二・七年期になると、道徳感
情、共感、反感の力が育ってきました。そして第三・七年期に、子どもはのびのびと個性を生かしながら、つまり自分の知性で
道徳的な判断を下せるようになるのです。ちょうど太陽の光に応じて植物が花を開き、実を結ぶようにです。第一・七年期のから
だと第二・七年期のこころの中で、道徳のために用意されたものが、ちょうど植物の花が開き、実が稔るように、自由に人生を生
きるために目覚めるのです。

道徳的な観点から、内的に、自由に、自分自身を評価できるようになると、道徳感情が人間の内面と結びつきます。そして「これ
は自分自身の問題だ」、と思えるようになります。からだの血液循環や成長力が自分の問題であるように、道徳作用や道徳力
が自分の問題になるのです。自分の本能が全身を、皮膚の表面に至るまで貫き働いているように、道徳を正当な仕方で自分の
中に発達させてきた人は、その道徳を自分のものと感じとっているのです。

そうしたら、どうなるでしょうか。そうしたら、人間は自分に向かってこう言えるようになるのです。「私が道徳的でなくなったら、私
は自分の中の大事なものを失ったことになる」。

からだの一部を失った人は、自分の中の大事なものを失ったと思います。前述した意味で自分の中に道徳の力を育てた人は、
「私が道徳を捨て、社会的な行動を道徳に結びつけないならば、私は自分の大切な部分を失っている」、と感じるようになるので
す。

自分が道徳的でなければ、自分の中の大切なものを失っている、と判断できることは、そもそも人間が自分の中に発達させるこ
とのできる最も強力な道徳衝動なのです。人間を正しく教育できたなら、その人は「全人」でありたいと思い、自然に自分の道徳
心に励まされて、自分の中に「霊性」を求めるようになります。そうなれば、体内に自然の力が働いているように、世界を貫いて
流れる善き働きが自分の中にも働いているのを知るようになります。

比喩的に言うなら、ここに蹄鉄があるとします。蹄鉄として作られた鉄です。そこに誰かが来てこう言います。「この蹄鉄は磁石
にも使える。鉄にはそういう力が内在している」。

しかしそこに別の人が来て、こう言います。「何だって。蹄鉄が磁石になるんだって。そんなことがどうでもいい。この蹄鉄は私の
馬用のものなのだから」。

人生全体の中に、さまざまな発達過程を通じて、生命の霊性が働いているのを見ることのできない人は、あとから来た人に似て
います。人間の中に霊性の働きを見ないで、鉄を特定の道具としてしか見ていないこの人は、磁石を自分の馬に打ちつける蹄
鉄であるとしか考えていません。そういう人は、子どもに人生の正しい見方を教えるのでも、人生を正しく生きる力を育てるので
もありません。人生のために道徳が霊的な意味で感じられ、意志されるならば、その道徳の力は最も力強い社会衝動にもなりう
るのです。

現在、私たちは社会問題の旗を掲げて働いています。この社会問題の役割を私たちは確信しています。それについてお話でき
ればよかったのですが、しかし、私に与えられた時間はもう終わります。ですから簡単に、次のことだけを申し上げたいのです。

社会問題には多くの側面があります。現在無党派層の誰かが、社会問題を具体的に取り上げ、社会の未来のために社会改革
を考え、実行に移そうとするとき、その改革の細部を検討する必要に迫られます。しかし、考え、実行に移すことのできる社会諸
制度のすべてに対しては、こう言わざるをえないのです。「道徳問題なしに社会問題を扱うのは、まるで光のない部屋を建てよう
としているようなものだ。光のない部屋で、一つひとつものを見つけようとしているようなものだ」。

社会問題は、道徳問題を現実の中に生かそうとするとき初めて、正しい考察対象になるのです。人生を全体的な関連の下に考
察するなら、こう言わざるをえません。「道徳問題は、社会生活を照らす光に等しい。社会問題は、真の意味で、霊的な観点の
下に置かれなければならない」。

ですから、社会問題も、道徳問題にどう向き合うのかが、まず問われます。今日は、私たちが人智学的霊学と呼ぶ霊性の学
が、この意味でも、現代の大きな時代問題に誠実に向き合い、そして私たちが道徳問題と共に道徳的な人間を育成するための
教育に真剣に関わっていることを示すことができたのではないか、と考えております。(P119-P127)