オカルト生理学





魂の経過と生理的な経過との対応

真にオカルティズムの立場に立つ人なら、地上界での私たちの魂のいとなみ、思考、感情、意志のどの過程によっても、それが
生きた経過から無生物的な経過かは別として、物質的な経過が体内につくり出される、ということに矛盾を感じたりはしないでし
ょう。私たちの魂に生じるどんな事象にもそれに対応する物質的経過が体内に見出せるのです。このことは最高に興味深い事
柄です。なぜなら私たちの時代は、これからの数十年の間に、今日の科学の中に見られる一定の方向の上で、魂の経過と生
理的な経過との対応を体内に見つけ出すようになるでしょうから。そしてオカルティズムによって獲得されたものを、それによって
確認できるようになるでしょう。

どんな思考の経過にも体内の経過が対応しております。どんな感情の経過にも、どんな意志の経過にも同じことが言えます。こ
の点を次のように言い換えることもできます。私たちの魂のいとなみの中に何かが生じると、ひとつの波が生じ、それが生体の
物質部分にまで作用を及ぼすのだ、と。まず思考の経過を取り上げてみましょう。思考の過程に眼を向けるとき、一番いいの
は、純粋数学上の思考のような客観的な思考を、いわば感情や意志の影響を受けていない客観的な思考を考えることです。つ
まり思考過程の「純粋培養」を考えるのです。私たちの魂の内部のこのような思考過程が生じるとき、体内には何が生じるので
しょうか。思考する度に、体内では或る物質上の経過が生じます。これは事実であって、譬喩ではありません。つまり水を熱して
グラスに入れ、それに塩を溶かします。そしてその湯を冷やして、溶けた塩を結晶させるのです。つまり溶解と逆の過程を生じさ
せるのです。塩がまったく溶けていれば、水は透明です。しかし温められたその水が再び冷やされますと、そこから再び塩が結
晶して現れます。水の中に塩の沈殿が再び生じます。そして透明な水の中から塩が再び結晶して現れるのを見るとき、私たち
は液体の中から固体が生じる過程を経験できます。固形物がそこに現れて沈殿するのです。塩の沈殿物がです。さて、先程申
し上げましたように、このいわばオカルト的な成果をいきなり見せられますと、科学が取り上げる事象を杓子定規にしか見ようと
しない人は、ショックを受けるでしょう。そしてこれとまったく同一の過程が、思考によっても体内に生じるのです。思考過程と塩
の沈殿とは対応しているのです。この過程は血液に作用し、そこから逆に神経系にも作用を及ぼします。思考過程は血液と神
経系の境界で生じます。そして皆さんがちょうど水の入ったグラスの中に塩の生成を観察するように、思索を続ける人間の中
に、超感覚的にこのような結晶化の過程が霊視できます。これが思考過程の物質的な相関物なのです。

それでは感情の物質的な相関物は何でしょうか。感情の場合には溶解過程の逆である塩の結晶過程のような事象は生じませ
ん。その代わり液体が半ば固まりかけるような、微妙な過程が体内に生じます。液体が半ば固まり、ちょうど半熟卵の白身のよ
うな状態に凝結します。液体の固形化です。思考作業によって液体状のものから沈殿する塩分を取り出す一方で、感情によっ
て内的に非常に流動的な状態を膨化した状態へ移すのです。その場合、成分そのものがより凝縮した状態に変化します。霊的
な眼には、小さな薄片が数多く形成されるのがわかります。まるで一定の液体を容れたグラスの中に、特定の経過を通して、内
部から薄片の形成過程を生じさせることができるかのようです。いわば心の内部で液状のものから膨化した小片を形成するの
です。

「魂の中の意志衝動」を取り上げるとなると、その身体上の相関物はもっと異なってきますが、この相関物を見出すのは比較的
容易であると言えます。そこでは物質現象がよりはっきりと現れるからです。つまり一種の熱作用が意志衝動の体内での相関
物なのです。この熱作用はもちろん体温を上昇させ、生体を熱くします。体温の上昇は血液の脈拍と関連しています。このこと
から血液の熱の上昇と意志衝動が関連していることがよくわかります。よく観察すれば、意志の過程が身体上の相関物を持ち
得ること、それが人体だけでなく、動物にも見られることを知るのに、それほど努力を必要とはしないでしょう。

このような仕方で魂の内的な経過の身体上の相関物或る程度説明することができますが、もちろん、今特徴づけた事柄はすぐ
に気がつくほど目立ったものではなく、非常に微妙な過程です。この過程のすべては、私たちの知っている物質現象のどの場
合に較べても、比較にならぬほどにまで微妙であると言えます。とはいえすべては生体が全力をあげて、自我が活動していると
きには血液という道具の助けも借りて、遂行している過程なのです。それは塩の沈殿から膨化や熱作用にまで及びます。そし
て或るときには生体のすべてがこの働きに捉えられ、また別のときにはたとえば思考過程の場合のように、主として私たちの組
織の一部分である脳、または脊髄がそれに捉えられます。この上なく多様な仕方で、体内のこの過程は魂の作用を受けている
のです。もしこの点を事実として認めるなら、思考も感情も、体内でも作用力を行使する現実の力であることを承認しなければな
らないでしょう。思考も感情も生体に働きかける作用力なのです。このようなオカルト的観察から私たちは人体に及ぼす魂の現
実の力に言及しなければなりません。そして人体の微妙な諸過程におけるこの現実的な作用力の存在は、次第に未来の科学
によって、数十年の内には明らかにされるでしょう。なぜならこの現実の過程は、科学の進化した精密な方法によって、外から
探求されることが可能だからです。そのときはオカルティズムに対するこれまでのような反対はおのずと消えてしまうでしょう。今
日では依然として、科学の成果からではなく、この成果と結びついた偏見だらけの理論によって、オカルト的認識に非難が加え
られています。(P146-P150)